© 2002, Minoru AMANO Last updated 2007/03/31

私の履歴書
DNAから遺伝子組み換えまで (2)
ドラマチックに発展した分子生物学の時代に身を置いて

広島大学名誉教授
天野 實


前回はカナダモントリオールでの研究生活を終えヨーロッパを廻って帰国した時までを書いたので、その後のことを書くことにする。

◆岡山大学医学部解剖学教室時代◆

 モントリオールへ留学する時に大変お世話になった尾曽越文亮先生の再度のお骨折りで私は岡山大学医学部解剖学教室に講師として、治子は助手として奉職す ることになった。尾曽越先生の研究上の興味は哺乳動物のリンパ球の動態であった。高等動物のリンパ組織では必ず細胞の分裂像が非常に多くみられた。即ち胸 腺でも体内の色々なリンパ組織(脾臓、リンパ節、盲腸)でも、組織切片で多くの分裂像が検出されるということはものすごく多くのリンパ球が常時産生されて いることを意味している。先生はこれらのリンパ球は血流中に出ていずれかの組織へ行った後、何日位生きていて、体内では何をしているのか、等々の疑問を解 決したいと考えておられた。それで私に、 3H-チミジンをマウスに注射してDNA合成中のリンパ球の核を3H- チミジンで標識してその後の動態をしらべるようにと云われた。

◆リンパ球の分裂活性の解析◆

   カナダで習得したオートラジオグラフの技術に必要な原子核乳剤は小西六写真KKからやっと入手可能になっていたし、3 H-チミジンも使えるような状態だったし実験は簡単だと思った。今までの経験 で充分と思われる量を投与して3時間、6時間、24時間後にマウスを殺し、組織をカルノワで固定してからパラフィン切片にしてオートラジオグラフを作製し た。その結果は小腸の陰窩(リーベルキューン腺)の細胞核の上には銀粒子が多く検出されるのに、リンパ組織内の分裂像のリンパ球にはほとんど銀粒子がみら れなかった。 3H-チミジンの投与量をふやしたり、3時間毎に一昼夜投与したが結果は同じだった。 それで核酸の生化学者で武田製薬株式会社におられた杉野幸夫さんに相談したところ、米国の研究室において放射線で DNA合成が障害される研究をおこなった時にチミジンでなくデオキシシチジンを前駆体として使ったことがあると話された。早速、3 H-デオキシシチジンを購入し、同じような実験をしたところ、リンパ組織のDNAを合成しているリンパ球の核の上には真っ黒になる程の銀粒子が検出され た。高等動物の分裂増殖(DNA合成)している細胞の動態を調べるには 3H-チミジンを投与してオートラジオグラフを作ればよい と簡単には言えないという面白い発見であった。この仕事は私たちが東京の国立がんセンター研究所へ転勤した後も続け、
Autoradiographic study on DNA synthesis in lymphoid tissues of the rat using tritiated thymidine and deoxycytidine. Cell Structure and Function. 1, 81-92. 1975.
にやっと論文を完成させた。その後、この仕事は私が広島大学総合科学部へ赴任してからも浜谷君が続けてくれた。

 岡山大学医学部病理学教室の妹尾左知丸先生が現在の細胞生物学会の前身の細胞化学会の会長をしておられた関係で色々なお手伝いをした。また解剖学会や日 本組織化学会には必ず出席し、多くの先生方とお知り合いになれた。医学部の教室には学位取得のための研究生がおられ、教室員は研究面でお世話をすることが 重要な仕事であった。瀬戸内海の写真で有名な緑川洋一氏の歯科医院の先生が研究生だった関係で、立派な写真を頂戴することになった。

 1963年には、オリンパス光学株式会社が直良博人さんの開発された顕微分光測光器(Microspectrophotometer)を販売しはじめ た。第一号機が岡山大学にはいった。日本中で何台か売れたけれど、使いこなせていないので講習会を開くことになった。これがご縁でオリンパスとの長い付き 合いが始まった。
 研究面や生活面では大変楽しく暮らしたのだが、尾曽越先生の講座の助教授が全く変な人で大喧嘩をしてしまった。丁度その時に国立がんセンターが開設され ることになり、直良博人さんからがんセンターに来て立ち上げに協力してくれとの話があった。

◆国立がんセンター研究所生物学部時代◆


   東京築地の国立がんセンター研究所で所長の中原和郎先生の面接があり、アメリカやカナダの生活が話題になった時に、私は「何処の国でも話す言葉が違うだ けで良い人も居れば悪い人間も居るものです。何処でも人間の作った社会だから似たようなものだ」と云ったら中原先生が強く同意して下さったことを今でも はっきり覚えている。幸いにも私は研究所生物学部の新しい名前の細胞生物学研究室の室長に、治子は同じ研究室の研究員の職につくことになった(1962年 4月)。

 さて東京での生活で最も困難なことは住居問題で、生まれて間もない長女の昼間の世話をしてくれる人を探し、その人の近くにアパートを探すことにした。恵 比寿駅の近くに人が見つかり、中目黒に狭いアパートを見つけたが、治子の月給が家賃に飛んでいくことになった。しばらくして結局は伯母が子供の面倒をみて くれることになった。岡山からの移転荷物が狭いアパートに入りきれず、トランクと一緒に売り払った。多くの英語の探偵小説が惜しまれてならない。少し生活 が落ち着いてからは毎週日曜日には適当な金額、距離、間取りのアパート探しを続けた。おかげで大都会東京の中央線、京浜東北線、東横線沿線の地理には詳し くなった。西は横浜、東は舟橋、北は大宮あたりまで探して歩いた。南浦和の駅には銭湯の大きな脱衣入れの棚があり、其の中にゴムの長靴が入っていたのには 驚かされた。その時は数年後に私自身が東京でゴムの長靴を買うことになろうとは夢にも思わなかった。

◆国際会議の想い出◆

 1966年10月に、京都の琵琶湖ホテルで国際会議 Second International Symposium for Cellular Chemistry が開かれることになり、私は会議の広報係を受け持たされ、遊覧船が桟橋から何時何分に出るから遅れないように集合してくださいとか、明日の朝食は何時から です等々のアナウンスをやらされた。皆な浴衣を着ての日本式宴会では、余興の野球拳の同時通訳をさせられた。先日、岡田節人先生の生命誌館館長退官のパー テーの時、岡田先生の奥様は初めてお会いした日のこの事を覚えておられた。こんな仕事のお陰で国内や国外の有名な研究者に顔と名前を覚えられ、夜のバーな どではよく話しかけられた。


 会議の話題はメッセンジャーRNA に集中していた。当時は3つの条件が必須であると強調されていた。1.速くラベルされる。2.代謝回転が速い(速く分解されてしまう)。3. AUGCの塩基組成の割合が DNAのATGC とよく似ている。この3つを満足させるものが核内で合成される重要なRNA であると考えられていた。大腸菌でのRNA の transcription が解明された時代だからこのようなことが強調されたわけである。この会議の内容は次の単行本として発行された。
Nucleic Acid Metabolism Cell Differetiation and Cancer Growth. Edited by E.V.Cowdry and S.Seno. 1969. Pergamon Press.
 Alex Novikoff  が岡山大学医学部病理学教授の妹尾左知丸先生と親しかったので、京都の学会の後、岡山に来られて講演会を行った。彼は今まで日本の大学で話をしても多く の聴衆はよく理解していないようだから、これでは面白くないし内容の量を削ってもよいから完全に理解してもらいたいので、5分位話したらすぐそれを通訳し てくれと講演の直前に頼まれた。組織化学の話だったので何とか責任をはたせて、大変喜ばれた。

◆肝癌細胞から核小体を分離する◆

 研究面では非常に充実した生活が出来た。癌細胞と正常細胞との比較研究から癌の特性を見出し、それを抑制する対策が見つかれば癌撲滅につながると考え た。癌細胞と正常な細胞との違いは、病理学的検査で核の大きさ、核小体の異常な形態が特記すべき点であった。この核小体が何の働きをしているのかも不明 だったし、研究課題としては魅力的であった。

 ラット肝臓の癌細胞を使えば移植可能な株細胞も入手可能だし、部分切除後の再生肝細胞との比較も可能だと考えた。それで佐々木癌研究所にお願いして吉田 富三先生の創出されたラット腹水肝癌細胞 AH-130を使うことにした。 先ず正常ラット肝臓細胞の核の分離、核小体、クロマチン分画(核の核小体以外の部分)、細胞質の核酸の定量的分析を行った。細胞膜を壊した後、2.3Mの 蔗糖液(どろどろのシロップ状)中で40,000 XG、50分の遠心分離をするときれいな核が沈殿として分離可能であった。比重の軽い細胞質や細胞膜の壊れなかった細胞は遠心管の上部に浮いてしまうので ある。此れは文献(Chauveau et al. Exptl. Cell Res. 11, 317, 1956)でみつけてやってみてそのとおりになり感激したものである。核を壊して核小体とその他の部分に分けることは簡単だと思ったが、この操作段階で長 い時間の試行錯誤をしなければならなかった。

 採用したChauveau の方法できれいな核をとるには3.3mMのCaCl2 が必要なのだが、このCaCl2が核膜を強くしてしまい、次の操作で中々壊れなくなっていた。当時がんセンター研究所の生化学研究室にあった、耳が痛くな るようなキーンという音を出す久保田の超音波発生装置で長時間処理しても、完全には核は壊れなかった。高圧にして小さい穴から急激に一気圧に放出するフレ ンチプレスでもだめ、高速回転のバーチスのホモゲナイザーでもだめ、ダウンスのホモゲナイザーでもだめで、困り果てた時に小さな電気会社の井原さんがやっ てきて強力な超音波発生装置が必要なら作りましょうと云ってくれた。もしも私が使っているラット肝臓細胞の核がこわれたら購入しましょうと話し合った。一 ケ月したら150W,20KC の超音波発生装置をもって来てくれた。直径5mmの先のとがった金属を分離した核の液に浸けて2分間音波にあてたら見事に100% 核はこわれ、核小体はきれいな形態を保ったまま存在していた。核小体の光学顕微鏡観察には Azur C という塩基性色素で染めた。当然エポンに包埋して電子顕微鏡で観察したが、核の中に存在していた時の核小体と全く同じ形態をした核小体が分離できた。
 種々の分画のRNAについて、蔗糖密度勾配遠心法で沈降パターンの分析をし、塩基組成の分析は Dowex カラムで行った。これら正常ラット肝細胞の核、核小体、クロマチン分画の RNAについての結果をまとめて M.Amano単独名で二編の論文を Experimental Cell Research に発表した。
Metabolism of RNA in the Liver Cells of the Rat. I, Isolation and chemical composition of nucleus, chromatin, nuclear sap and cytoploasm. Exptl. Cell Res. 46,169-179,1967.

II, Chemical analysis of RNA in cellular components. Ibid. 46, 180-190,1967.
 核小体の分離では、当時米国テキサスのベイラー大学でH.Bush の所におられた村松正実先生に数カ月先を越されて非常に悔しい思いをしたが、がんセンターでは純国産で核小体の分離が出来た。月月火水木金金の重労働の連 続であったが充実した研究生活が送れたと思っている。

◆発生生物学会との関わり◆

 1965年には雑誌「蛋白質・核酸・酵素」に「仁(核小体におけるRNA合成)」10,56-64,1965 や実験形態学誌(Development, Growth and Differentiation の前身)に「RNA合成における仁(核小体)の役割」19,47-53,1965 と二編の核小体についての総説を書いた。これらの論文が多くの研究者や学生さんの目にとまったのだと思う。当時米田満樹先生が校長をしておられた「生物物 理夏の学校」の講師として八ケ岳の麓に呼ばれて行ったことがある。その時にアフリカツメガエルで見つけられた核小体が出来ない突然変異では発生の初期遊泳 胚の段階で発育が停止することが発見された話をし(今ではr-RNA の新たな合成が出来ないことは誰でも良く知っている)カエルの発生過程でも核小体が核内で重要な働きをしている構造体であることを強調した。このようなこ とがあったので1968 年の発生生物学会設立の準備委員会に私が呼ばれることになったのだと思っている。このあたりのことは発生生物学会のInformation Circular No.90.7-12,1998の「学会発足当時及びDGD創刊とその後の経過」 に書いたので参照して下さい。

◆m-RNA のアデニン値をめぐって◆

 さてラット肝癌細胞AH130研究は動物の飼育、腹水癌細胞の継代移植保存等色々な問題はありながらも順調に進められた。村松正実先生達はWalker  Sarcoma を癌細胞として使っておられた。我々は1968、November に RNA Synthesis in Ascites Hepatoma AH-130 Cells of Rat. を Cancer Researchに投稿した。二名のレフリーは very good で acceptable と返事をくれたが、残りの一名のレフリーが受理不可と言って来た。クロマチン分画の塩基組成でアデニンの値が非常に高いのがその理由だった。注意深く実験 を繰り返し行ったが同様の結果なので再投稿したら Technical Error でAの値が高くなったのだろうと書けば受理するとの返答だった。残念ながら論文の Discussion には
It is likely that some AU-rich RNA in chromatin fraction in the present experiment might be the RNA which was degraded during fractionation and extraction procedures.
の文章を入れて受理してもらった。遅れに遅れたお陰で Cancer Researach Vol.30,No.1,P.1-10.January,1970. 年初めの巻頭論文になった。国際的に有名な学術雑誌でこのようなチャンスはめったに ないよと、外国の友人からは羨ましがられた。実はこの一名のレフリーが村松正実先生のボス H.Busch であることは以前に文通していた手紙のタイプにあるrの字のキズがレフリーの受理不可の理由の文章のタイプのrのキズと一致していたので分かってはいた が、直接手紙を書くわけにもいかず非常に腹立たしい思いをした。今にして思えば私は生化学の専門家ではなく極端に注意深くきれいに核の分離、核小体の分 離、クロマチン分画のRNA 塩基組成分析を行っていたからクロマチン分画の RNA 即ち m-RNAには poly-A がついていて Aの値が Busch らの値より異常に高かったのだと思う。一流の生化学者がこのような結果を得たならば自分の得た結果には自信を持ち、何か面白いことがあると勘付いたかもし れない。世にいうAuthority の結果と違う実験結果が得られた時には貴重な宝として大切にしてほしいと思うこの頃である。

 さて核小体RNAの分子種の研究は32Pでパルスラベルして合成直後のRNAの性質や、その後の経過を詳しく調べる事であった。 45Sの大きさのRNA が合成された後に35Sと18Sになり、つづいて28Sと18Sのr-RNA 分子になり蛋白質と結合して核から細胞質へ移行することが明らかになるのであるが、我々の所では一回の実験で使うRNAの量が少なく蔗糖密度勾配遠心法で 分離した後、自動記録装置ではなくて数滴ずつ試験管にとり、分光光度計でOD 260を測定し、その分画の放射能を測定することを 行っていた。45Sの RNA やその後の分子種の変化などは一度に大量処理して実験出来る米国におられた村松正実先生の研究室によって明らかにされてしまった。

◆肝癌における DNase 活性の消失◆

 治子の方もモントリオール癌研究所での仕事を続けることが出来た。バターイエローをラットに与え肝臓の癌形成過程の種々の段階での DNase 活性をフイルム基質法で調べた。結果は非常に面白く、正常肝では DNase 活性は強いのに肝癌では、全く無くなっていた。アメリカの J. of Histochem. & Cytochem. に投稿したが技術的な不備ありとして拒絶された。充分説明して再投稿したが、駄目との返事だった。 次には追加実験の結果を加え詳しく説明をして投稿したが、やはり拒絶された。全く学問的に理解出来ない理由で受け取ってくれないことがあるとは先輩達から 聞かされていたが本当に悔しかった。自分の国で国際的な学術雑誌を持つことの必要性はあるのですよ。

 仕方なく、日本で出している雑誌「GANN」に投稿し、直ちに受理して頂いた。この内容は、その年の癌学会の特別講演で東京大学薬学部の水野伝一先生に より紹介して頂くことが出来た。「国立がんセンター研究所生物学部の天野博士ご夫妻の研究によれば」と二度も名前を云われて話して頂いた。これがご縁で薬 学関係の癌特別研究の研究班に参加させていただき研究費の面や、免疫関係で活躍しておられる研究者を知ることでも大変有り難かった。

 さて日本でも女性が研究者として働けるようになって来たかなと思った矢先、職種別に決められた公務員定員削減が発令された。がんセンターでは先ず女性研 究員がターゲットになり治子は職を辞める事になった。

◆がんセンターを去る◆

 がんセンターは病院、研究所、事務局の構成だったが、看護婦さんで子供のいる若い人の生活は非常に大変だった。託児所が近くに無く、共稼ぎが出来ない状 態だった。このような色々なことから厚生省の模範的職場(労働組合がないという意味で)とされていたがんセンターに、秘密裏に労働組合を作り上げた。この ことで私は訓告処分(何のデメリットもなかった)を受けた。その後色々な苦労をしたが何とか保育所をつくり、初代のどんぐり保育園の園長を務めた。

 がんセンター研究所生物部の部長直良さんはオーストラリヤへ行ってしまうし、西村暹氏が部長になり、生き物ではなく物として全てを観る雰囲気が強くなっ た。私は東京築地の国立がんセンター研究所へ来て核小体の研究に従事し、ほぼ一段落したので外国へ行き少し異なったテーマに研究を変えようと思いはじめ た。1971年には東大から来ていた博士課程の学生さんの事も区切りがつき、ぼつぼつ外国へ行ける可能性が出てきた貴重な時期であった。 L.Goldstein がアメーバを用いて核と細胞質の間を移動する核酸・蛋白質複合体の研究をやっており論文を発表していたので興味をもち、貴研究室へ行きたいとの手紙を出し たところ、何かの scholarship を取れば来ても良いとの返事だった。色々な癌関係の奨学金に応募したが全てだめだった。

 この時期をのがすと将来いつ外国へ行く機会が得られるか分からないとの思いが強かったので、リンパ球の仕事をしておられたN.B.Everett先生に 手紙を書いたところOKの返事が来た。彼は米国西海岸 Seattle のUniversity of Washington, Department of Biological Structure (昔のAnatomy)の Chairman をしておられた。Grantからの給料は少ししか出せないが Teachingを手伝うならば収入は増加出来るとの事だった。Everett先生はモントリオールのLeblond先生と共同研究をされたことがあり、 体内で非常に長く生存するリンパ球と割合短い期間しか生きないリンパ球を見出しておられ、その生物医学的役割を調べたいと思っておられた。

◆シアトルのワシントン大学へ◆

 1972年9月に羽田から米国ワシントン州のシアトルへ家族5人で出掛けた。米国西海岸は東とは違って気楽に生活出来るような雰囲気ですぐに溶け込め た。キッチン付きの部屋を借り、新聞の広告と地図を見てはレンタカーで借家探しをした。リンゴの木の生えている大きな庭付きの家を借りることにした。上の 子供二人は近くの小学校へ入れた。英語は分からないが日本人の二世の人をチューターに付けてくれて、何とか楽しく通学し始めた。私の方はラット核小体の仕 事やリンパ球のデオキシシチジンでの仕事をセミナーで話した。Rat liver や Hepatoma の話をするのにすぐ理解したような仕草をしてくれなくて、それは私の英語の r と l の発音が悪いことに気付かされた。夜学の How to speak like American. というコースを取る事にし、毎週一回2時間を帰国する迄つづけた。Joke などを含めてアメリカ人の生活を理解する上でよい経験だった。

 シアトルには、同じ研究室に京大内科出身の筒井先生がおられ、早稲田大学教育学部生物の並木さんが内分泌の研究室、千谷さんが生化学教室におられた。モ ントリオールの時とは違って多くの日本人のお世話になった。日曜日には近くの山へピクニックに、海へは貝堀に、秋にはマツタケ狩に行った。ウワジマ屋とい う大きな日本食品のストアーがあり日本食には全く不自由がなかった。日本へおいしいカリホルニア産のお米を送ったり、秋にはシアトル産のマツタケを送った りした。5本入りの物を送ったのに広島に着いた時には3本になっていた経験がある。

◆グラント、授業、研究室◆

 研究室の研究面でも割合ゆったりとしたペースでぼつぼつという感じだった。しかし研究費獲得の Grant 申請後の Visitor's Interview の前の準備は大変な作業だった。面接には全米からテーマに関係のある専門家が来るわけだが、一週間位前に氏名が正式に通知される。誰々が来るのならどんな 質問をするだろうか? 最近どんな研究をしているかなど、手分けして論文を複数コピーしたり、想定質問に対して我々の研究のどの部分を強調して話をするか などを、与えられた時間との関係で細かいところまで決めて行くわけである。私もメンバーの一員に加えてもらい、発表のスライド作りからリハーサルまで何度 もやらされた。以前、米国に永住しようかと思われた先輩が最終的には帰国され、その理由にGrant 申請作業の大変な事を話されたが、あの時身に沁みて思い知らされた。

   授業の方は組織学の講義なので心配することはなかったが、コーラーを飲みながら授業をうける学生には嫌な思いをした。また午後の実習のときに、ヘイ、ミ ノル! と呼ばれて質問されるのには大変困った。  また、昨年同じ授業を受けた学生が私の授業に出席してノートをくわしく取り、初めて受講する学生にお金を取って販売しているのには驚いた。授業中はノー トを取らずに聞く事に集中せよとの先輩のアドバイスであるし、アルバイトでもあるのだそうだ。大学院の学生対象の授業は組織化学の実習を伴う講義だった。 DNA特有の発色をする Feulgen 反応の話の時には、既婚の学生には口紅の色とよく似ているから実験衣についた時にきれいに消す方法などを教えてやり、大いに喜ばれたりした。

 この研究室は第二次大戦直後は、S. Benett 教授が主任で電子顕微鏡による生物医学分野の活動の中心地の一つであった。 Benett 先生は日本の鳥取で牧師をしておられた家の息子で日本語が話せる人だったので、多くの日本の解剖学者が留学して電子顕微鏡による立派な仕事をされた。千葉 大学の永野俊雄先生の中心小体の立体配置や、浜清先生の神経細胞のシナプス等々の仕事は全て Benett 先生の時代の仕事である。また先生は政治的手腕のある方でこれらのお弟子さんが日本へ帰られた後、米国から基金を取って電子顕微鏡を研究室 に設置されることに尽力されたことでも有名である。最後には米国大統領の科学補佐官でもあった。日本で開かれた国際解剖学会では流暢な日本語でユーモア たっぷりの特別講演をされ万雷の拍手を受けられたことは今でも鮮明に記憶している。

◆クリーブランド、デンバー、シアトルの想い出◆

 1974年に、クリーブランドで米国解剖学会が開催され、私は発表するためシアトルから飛行機で行くことにした。何かの都合で予約の確認はしてあったの だが出発時刻間際に着いたら, 1st Class の席に入れてくれた。お酒はなんでも飲み放題、料理はオードブルからはじまってフルコースを食べさせてくれた。1st Class の席が空いてたときのみで運がよかったとのことであった。その学会中、アメリカ中部に来たらおいしい Cornedbeef sandwich を食べるのだと同僚の Cornelius Rosse が昼飯に連れて行ってくれた。Cornedbeef とは缶詰のあの肉と思ったら大間違い、1cm 位の厚さの塩漬けの美味しい牛肉にたっぷり西洋からしをつけたもののサンドイッチだった。また夜の講演のない時間帯に学位が取れる見込みのある大学院生 や、若い研究者が職を探すための交流の場が設けられているのは人事の流動化促進には良い事だと思った。
 シアトルでの研究成果は次のような論文にして発表した。
M.Amano & N.B.Everett, Studies of small lymphocytes using 3H-deoxycytidine as The DNA precursor. Anat.Rec. (Abst.) 178,298,1974.

I. Tsutsui, M. Amano & N.B.Everett, Changes in Pyrimidine Metabolism of Rat Lymphocytes Cultured with PHA. J of the Reticuloendothelial Society, 18,NO.2, 1975, 87-96.

M. Amano & N.B.Everett, Preferential labeling of rat lymphocytes with a rapid rate of turnover by tritiated deoxycytidine. Cell Tissue Kinet. 1976, 9. 167-177.
 コロラド、デンバーには広大理学部動物学出身、広大医学部出身で阪大微研・病理学教室の宮本博行(和歌山医大微生物教授で退官)さんがおられたのでシア トルに帰る途中寄ることにした。モントリオールの学生時代の友人ポール・ナカネ(免疫組織化学で有名な人)に何十年ぶりに会い楽しい時を持てた。しかし、 その時に乗った飛行機で大変な経験をした。デンバー到着30分位前に乗客にアナウンスが始まった。「機体の不調によりスチュアーデスの指示に従って行動し て下さい」と言うだけで何がどう不調なのかは一切説明しない。まづ年寄りや子供を非難口の近くへ席を変え、棚の荷物をすべて通路に下ろさせた。シートベル トを締めて、目耳を押えて前かがみになる練習を何回かさせられた。隣の窓際の人が外を眺めて、どうも同じ所をぐるぐる旋回してガソリンを消費しているよう だと話してくれた。何となく主翼が少し傾いて飛んでるような気にもなってくるし、だんだん不安な気持ちになって来た。  再びスチュアーデスの指示で目,耳を押え前かがみになっていたら、ダダダダダーとすごい音がしたのが無事に飛行場に着陸出来た瞬間だった。アメリカ人は 性別、年齢を問はず殆ど全員立ち上がってブラボー、ブラボーと叫びながら誰かれなしに握手をしていた。貴重な体験だった。

  シアトルからは車で一時間位のところに Gingopetriffied forest 州立公園があり、しばしばピクニックに行った。また夏休みにはキャンパーを借りて、自分の車で引っ張って、カナデアンロッキーやイエローストン、恐竜の 里、グランドキャニオン、ラスベガス(中古の車がオーバーヒートするので夜中に通過したのみ)などを廻り結構楽しんだ。

※編集注:ポール・ナカネとは酵素抗体法の開発で有名な中根一穂先生のこと。学際企画から出ている同法のバイブル「酵素抗体法」には第2版 から執筆に加わった。現在の第4版では、「渡辺・中根 酵素抗体法」と名が冠せられている。


◆そして帰国◆

 まる二年が過ぎ、家族は皆な米国に永住したいと思っていたが私は決断出来なかった。人事関係の教室会議の席上でちょっと話されるジョークが理解出来な かったり(Let's have a twice shower in the morning. 今日はこの位にしてまた考え直そう)、私の仕事をしてくれていたテクニッシャンの離婚問題で亭主が夜中に掛けて来る電話の英語が分からない等々、小さい時 からマザーグースの話で育った人達の間で頑張って生活して行くには私の英語力はまだまだ駄目だと思い帰国することにした。
 帰国途中にハワイではオハフ島のみでなくハワイ島でキラウエア火山を楽しんだりして無事東京へ帰ることができた。 帰国後、岡山大学医学部におられた内海耕造さんの家で兼田正男さんと会い広大総合科学部の構想を聞き、小林惇さんからは東京五反田の飲み屋で今堀誠二先生 の学際領域を伸ばすユニークな学部設立の理念を聞き、広島へ帰って来ることを決心した。三年位で西条の新キャンパスへ移転するような話だった。 

広大での生活は次回に回すことにする(2002年10月)。


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