© 2001, Minoru AMANO Last updated 2007/03/31

私の履歴書
DNAから遺伝子組み換えまで (1)
ドラマチックに発展した分子生物学の時代に身を置いて

広島大学名誉教授
天野 實


◆広島高等学校生時代◆

 私の広高時代は、硬式庭球とドイツ語に力を注ぎつつ明け暮れた生活であった。将来、生物学の一分野である発生学−−即ちカエルの円い卵が如何なる機構で オタマジャクシになるのかを研究するつもりであり、それにはドイツ語が必要だろうと考えたのだ。当時、広高の生物学の教官は、前田先生一人であったが、ぼ そぼそと話される式の植物学が中心の授業で、生命の神秘について興味をそそられるようなものとはほど遠いものであった。その頃は、頭の良い者は数学、物理 をやり、次は化学で、人間性豊かな人は医学をやる(成績が良いとは限らない)ことになっていた。どうにもならない奴が生物学をやるのであって、 Biologie は Natur Wissenshaft ではないと言われたものである。

 広高二年の夏休みになって、蓑内収氏(元京大助教授)の講演会があり、その時、柴谷篤弘氏の著書「理論生物学」が紹介された。 私はそれを早速購入して読み、生物学も科学に成り得る可能性がありそうだと思った。昭和二十二年発行の定価三十五円のこの本で、Ludwig Von Bertalanffy の著書 Theoretische Biologie 1932 等を知った。すでに1944 年に Rudolf Schoenheimer は、ネズミの色々な臓器のタンパク質を調べ、ダイナミックな動的平衡状態を記載していた。これらの本を読み、益々興味が湧いてきて発生生物学を一生やるこ とにした。

 私は海軍兵学校七十八期生で、分隊付き教官は広島高師、数学科出身の広畑亘先生だった。原爆で肉親が死んでいたら俺の所へ来いと言ってくださった 教官でもあった。三年の夏休みにひょっこり高師時代の彼の友人の蛯谷さん(当時広島文理大動物学科助手)と一緒に我が家に来られた。大学進学の話になった 時、動物の発生学を専攻するのなら東大、京大に行かなくても、広島文理大にカエルの大先生がいるから文理大を受験したらどうかと勧められた。広島高等学校 の時のチューターで地学専門の鈴木正利先生に相談したところ、過去の高師文理大、即ち教員養成大学とは異なり、新制広島大学になったのだから自分も広島文 理大への進学を勧めるとのことだった。受験科目は専門の生物学と語学のみであった。専門の出来は悪かったが語学の点が良かったので合格出来たと入学後に知 らされた。

※編集注:広島高等学校は旧制高校で、1959(昭和24)年に広島大学に包括されて、広島大学教養部になりま す。広島大学教養部は1974(昭和49)年に発展改組されて、現在の総合科学部になりました。天野先生の当時は、旧制高校3年を終えたあと、大学へ進学 するという学制になっていました。また、天野先生は終戦の年(1945年/昭和20年)の3月に兵学校に入校され、8月まで兵学校生徒でした。
 

◆広島文理科大学生時代◆

 大学生活一年前期の授業は全くつまらないもので、来年、東大か京大を受験し直したいと鈴木先生に相談したら、鈴木先生は「大学という所は先生に教えても らうのではなく、自分で勉強する所だ」といわれた。日本で研究者になるためには出身大学が将来を決める重要な要素だという事を話してくれる人は身近にいな かった。鈴木先生の言われるのが正しいのかなと思いかえし、古本屋で手に入れたドイツの教科書 Lehrbuch der Zoologie を読んだが全く面白くない。そのうち、比治山の上にある ABCC (Atomic Bomb Causality Commission) の図書館には世界中の生物医学関係の最新学術雑誌があると聞いたので、早速行ってみた。受け付の人も図書館の人も親切で、大学生の身分証明書があれば、何 時でも来て本や雑誌を見て良いとのことだった。夏には冷たい飲み水があるし、冬は上着をぬがなければ暑すぎるほど暖房が効いていた。大学では聞いたことも ない名前の雑誌や本が沢山置いてある。国際雑誌Biochimika et Biophysica Acta の論文には、本文が英語でなくても全べての論文に Summary のみでなく Zusammenfassung と Resume の三ヶ国語の抄録が付いていた。特に毎年開催されているCold Spring Harbour Symposium には興味をそそる題目の論文が沢山のっていた。

 ABCC の書棚には学術雑誌のみでなく面白そうな題目の専門書がずらりと並んでいた。Joseph Needham, Biochemistry and Morphogenesis, Cambridge University Press 1950 を見付けた。第一頁に

「孟子曰博学而詳説之将以反説約也」
(Mencius said: extensively learn and in all detail state it, so that later, summarise its essence. 4th century B. C. )
と掲げてある色々な動物の発生に関する膨大なデータの本である。引用した著書や論文の数は約 6000 で参考文献のページだけで 70 頁にもわたっている。面白い 内容の所には必ず、 J. Brachet, L. von Bertalanffy, T. Caspersson, R. Goldshmidt等の論文が多数引用されている。外貨の関係で直接入手出来ないので、米国人に頼んで購入してもらった。785 頁のすごい本だが必死で読んだ。1953 年にはやっ と日本円で洋書が買えるようになった。Bertalanffy: Vom Molekuel zur Organis-menwelt、Akademische Verlagsgesellschaft Athenaion Potsdam 1949 や Problem of Life, Watts & Co. 1952 を東京のアカデミア図書株式会社を通して購入した。Brachet: Embryologie Chimique, Masson & Cie. 1947 はフランス語でなかなか読めなかったが,  L. G. Barth, (Columbia University) の訳本 Chemical Embryology,  Interscience Publisshers Inc. 1950 が手に入ったので一気に読み終えた。卵形成のところでは核酸のことが書いてあり、F. E. Lehmann: Einfuehrung in die Physiologische Embryologie, Verlag Birkhaeuser Basel 1945 には誘導のところに核酸のことが書いてあった。

※編集注:1949(昭和24年)5月31日,広島大学は,広島文理科大学,広島高等学校,広島工業専門学校,広 島高等師範学校,広島女子高等師範学校,広島師範学校及び広島青年師範学校を包括し,広島市立工業専門学校を併合して設置されました。学部は、文学部,教 育学部,政経学部,理学部,工学部及び水畜産学部となっていました。1953(昭和28)年には広島医学専門学校も併合され医学部となります。

◆核酸との出会い◆

 面白そうな題目の論文を見ると必ず Nucleic Acid、DNA、RNA (当時はまだ PNA: Pentose Nucleic Acid) が出てくるのでこれは大変重要なものに違いないとの確信を得た。丁度その頃、江上不二夫編集の「核酸及び核蛋白質 上下巻」昭和二十六年が共立出版社から 出た。下巻の柴谷篤弘担当部分が将に ABCC で読んでいた論文 に関する内容であった。すぐにでも柴谷先生に会いたいと思い、ショウジョウバエの研究をしておられた平俊文先輩(海軍機関学校出身で広島文理大の二年先 輩、元早稲田大学教育学部教授)に話したところ、彼の海軍機関学校の教官が、京大動物学科出身だから連絡を取ってあげると言ってくれた。私は此が御縁で平 さんの教官の京大での同級生である梅棹忠夫先生の所へ行き、翌日百万遍の進々堂で柴谷先生に会うことができた。その時の話では、柴谷先生に会いたいと連絡 をしてきた人が直良博人(Feulgen 反応で DNA のみを染色し、DNAの量を定量的に測定出来る機械、顕微分光測光機をオリンパスKKと協同で開発し、癌研からベルギーの J. Brachetの所でアセタブラリヤの仕事をし、ロックフェラー研究所マースキーの所、癌センター生物学部部長、現在もオーストラリヤ・キヤンベラにある 大学の教授)、大沢省三(名古屋大学からロックフェラー・マースキーの研究室、広大原医研の教授、名古屋大学の分子生物学の教授、分子進化論の研究者)、 岡崎令治(岡崎フラグメントの発見者,名古屋大学教授、没1975)と私の四人だったとのことだった。長年にわたる貴重な友人との出会いであった。次の日 本動物学会は広島だったが戦後の復旧ままならず、旅館も少なかったので、幸い焼けなかった私の家にこれらの方達に泊まってもらい、秋だったのでマツタケを 一杯いれたすき焼きを食べながら話し会った記憶がある。クレメンタインの歌を歌い終わった時に梅棹先生の言われた言葉は、いまでもはっきりと覚えている。

「研究者は進み易いアスファルトの道を行くのではなく、炭鉱夫のように一歩一歩発掘しながら進む気概がなくてはいけないよ」
あい変わらず大学の授業は面白くなく、毎日毎日ABCC の図書館へ通った。三回生になってからの卒業研究では、人工的に作製したイモリの三倍体が全て雌になり、しかも成熟した卵が出来ないので、何が原因なの か、核酸の代謝が異常なのではないかと考えた。実験に必要な試薬や装置もなく、化学的なことはやってはいけないとか、隣の研究室へ行くのも遠慮せよ等の雰 囲気の中で、頑張り過ぎたのか肝臓を悪くした。病院の低タンパク低カロリ−の治療では良くならず、駅前の香具師が売っていたニンニクでみるみる回復でき た。この時以来私はニンニクの信奉者になってしまった。卒業はしたけれど、助手のポストは一杯で私は、女子高校の非常勤講師をしながら研究を続けた。

◆山口県立医科大学・医学進学コ−ス時代◆

 当時柴谷先生は宇部の山口県立医学専門学校の進学過程におられた。月給は出せないが研究生としてなら来て研究をしてもよいとのことだったので、父 の許可を得て宇部に行くことになった。生まれて初めての下宿生活をしながら、ネズミの肝臓の DNA や RNA の生化学的定量等充実した日々を過ごした。DNA のサンプルを、外国の研究者に頼んで送ってもらったら、直径1p高さ3pのガラスビンに5o位の白い糸状のものが入っていた。貴重品なので小さく切り厳密 に秤量して使った。此がDNA を見た最初だった。宇部の屠殺場へ行き牛の腸間膜リンパ節をもらって DNA を分離精製したところ、白色でなく青味がかった糸状のものが取れた。ワーリングブレンダーのメッキが悪く地金の銅から銅イオンが出たことによって色がつい たことが後でわかった。私の生涯の節目、節目で最もお世話になった中学、広高の大先輩、尾曽越文亮先生にお会い出来たのも宇部にきたからである。尾曽越先 生は、現在誰でもよく知っている骨髄移植の実験を世界で初めてやられた偉大なるパイオニアである。

 私は、日本で初めてである燐の放射性同位元素を注射したラットの肝臓 DNA を抽出し、細胞の分裂増殖と DNA 合成の関係を調べた。此の実験結果により DNA の半保存複製の研究を成し遂げた時の感激は今も忘れられない。此の仕事はBiochimica et Biophysica Acta Vol. 21, 489-499, 1956 の論文になった。此の仕事が成功した技術的なポイントは、高い比放射能を持つRNA のコンタミのない DNA を分離精製 した事にあった。此の論文は、私が First Authorとなり Journal of Biochemistry Vol. 45, No. 10, 799-802, 1958 の論文となった。ネズミの木製飼育箱の掃除で全身ダニだらけになったことや、研究費節約の為の餌の煎餅焼きの苦労など今では懐かしい思い出だ。柴谷先生は 1955年に Scotland、Glasgow の J. N. Davidson (The Nucleic Acids Vol. I and II の著者)の所へ一年間行かれた。留守中、木原弘二さん(京都一中、三高の柴谷さんの後輩で、柴谷さんの勧めにより生化学をやるのなら大阪市立大学が良いと のことで、大阪市大を卒業した後、柴谷さんの助手でおられた。私がカナダへ出た後、米国マジソンのウイスコンシン大学、帰国後慶応大学医学部に勤められ た。)から出版されたばかりのプルーストの「失われた時をもとめて」を借りて読んだ記憶がある。柴谷さんが帰国されてからの昼飯はイギリススタイルで、大 きなハム一本を肉屋で買ってきて厚く切り野菜をはさんだサンドイッチと紅茶だった。柴谷先生と木原さんの漫才のような京都弁の会話を聞きながらの生活が続 いたが、私は細胞を磨り潰して核酸を抽出し放射能を測定するような生化学の仕事にはどうしても満足出来なかった。細胞が分裂増殖する時 DNA が複製されることと染色体の関係を顕微鏡下で証明したいと考えた。構造と機能を視覚的に同時に研究する方法を習得したいと思った。当時この技術であるオー トラジオグラフィーは世界中で三ヶ所しか行なわれていなかった。その一つがカナダ・モントリオールのマギル大学解剖学教室 C. P. Leblond 先生の研究室だった。

※編集注:山口医専が、1949(昭和24)年に山口県立医大となり、1964(昭和39)年に山口大学医学部と なりました。天野先生がおられたのはこの県立医大時代のことです。尾曽越文亮(おそごえぶんすけ)先生は医学部解剖学第1講座の初代教授で、後に岡山大学 医学部解剖学講座へ異動します。
 

◆モントリオール・マギル大学へ留学◆

 1956 年にボストンで国際血液学会があり、尾曽越先生が出席されるので、私のカナダへの留学をお願いした。「細胞分裂と DNA 合成の半保存性を染色体レベルでオートラジオグラフで証明したい」と Leblond 先生に手紙を出したらすぐに次のような返事が来た。「その仕事はすでに J. H. Taylor がやってしまって、もうすぐ論文(かの有名な J. H. Taylor, P. S. Woods & W. L. Hughes Proc. Nat. Acad. Sci. Vol. 43, 122, 1957) が出る。お前が哺乳動物で RNA 合成の仕事をするのなら受け入れてもよい」との返事だった。幸い 1957 年夏、ビザの関係で私一人先に渡米することになったが、その前に妻のビザ取得で苦労した事や、日本円のドルへの換金許可が、わずか四十五ドルだったための 闇ドル購入の必要等々、色々な困難の末にやっとトランク一つでモントリオールへ辿り着いた。

 DNA 合成と染色体の関係はすでに Taylor が証明してしまったから、私はネズミの細胞の何処でRNA が合成されるのかを調べろと言われ、アメリカ人の論文(W. B. Quay, Stain Technol. Vol. 32, 175, 1957)を渡された。Quay は放射性炭素 14 Cで標識した物質アデニンをネズミに注射し、組織をホルマリンで固定して切片を作り DNase 処理後に、オ−トラジオグラフを作製したものであった。アデニンは核酸のDNA と RNA の両者の合成に利用されるので DNA だけを特異的に除去して後にオートラジオグラフを作り放射能によって写真乳剤に出来る銀の粒子の位置を顕微鏡下で観察するわけである。 14C はエネルギ−が強く、解像力が低いので14Cよりエネルギ−の弱い水素の放射性同位元素3 Hで標識された化合物を使うことにした。当時1957年にはRNA にしか利用されない 3H-ウリジンは市販されておらず、入 手可能なものは 3H-シチジンのみであり、此の物質はアデニンと同じくRNA のみでなく DNA 合成にも利用されるので DNA を DNA 分解酵素で特異的に除去する処理が必要だった。

 Quay の実験を正確に追試したがうまくいかなかった。またたくまに三ヵ月が経過した。日本人の若い研究者はだめだとLeblond 先生は思いはじめていた事を後で知った。Leblond 教授には内緒で実験条件を始めから検討し直すことにした。色々な操作の条件をしらべてみたら二つの大きな発見をした。先ず最初の処理である組織の固定液が 誤りであった。カルノワ固定液でないとDNase 処理で RNA を残して DNA のみを完全に消化出来ない。ホルマリンで固定するとDNA が分解酵素処理で除去出来ないことが分かった。次の DNA 分解酵素の処理操作の時に加える Mg の濃度が生化学の実験条件ではだめで固定した細胞からDNA のみを特異的に除去するためには Mg 濃度を高くする必要があることが判明した。実物の組織標本を見せて、Quay の論文は正しくないと説明したところ Leblond 先生は直ちに納得してくれて、月給を二倍に上げてくれた。私は此の酵素処理の論文は Amano and Leblond の共著で出したいと言ったら、お前のアイデイアでお前が発見したのだから単独名で出すと言ってくれた(J. Histochem. Cytochem. Vol. 10, No. 2, 204-212, 1962)。此の私のテクニックは組織化学のバイブルと言われている本 A. G. Everson Pearse 3rd Ed. Vol. 2, 1972 の p. 1022, 1025 で固定液と Mg 濃度のことが詳しく紹介されている。なおこの方法を用いて 3H-チミジン が DNA の特異的前駆物質であることを証明した論文を、カナダに来て初めてファーストオーサーで出す事ができた(J. Histochem. Cytochem. Vol. 7, 153-155, 1959)。

◆マギル大学・大学院生時代◆

 オートラジオグラフィーの技術を習得したら日本へ帰るつもりだったが、日本での職はなく、更に将来学位を申請して取得出来る可能性が非常に少ない ことを考えて、一年後に大学院の学生になることを決心した。大学院生になれば、月給は無くなり少額の奨学金しかもらえなくなる。私立大学だから高い授業料 を支払わなければならなかった。解剖学実習の助手として手伝いをすれば多少の手当てが出るとのことで組織学の実習助手をすることにした。助手一名に学生十 名が割り当てられ、授業の始めにその日に顕微鏡で観察する標本の説明を十五分間することになった。此が本当に大変だった。十五分間しゃべることを前の晩に 丸暗記して行くわけだ。お金を稼ぐ手段だから必死でやり、学生との質疑応答などの経験は英会話の上達に非常によかったと思っている。又経済的な面では、妻 がモントリオ−ル癌研究所で研究員として働く事ができ、月給がよかったので、何とか大学院生としての生活を継続することが出来た。

 妻の仕事は DNA や RNA を含むゼラチンのフイルムに固定しない組織の凍結切片を密着させて後、切片を剥がしてフイルムを染色し、同じ部域の切片と対比させて、核酸の分解酵素活性 の分布を細胞レベルで調べる事だった。バタ−イエロ−で作ったラット肝臓癌を用いて DNA 分解酵素の活性が正常、前癌状態、癌組織で異なることを見いだした。此等の仕事は J. Histochem. Cytochem. Vol. 8, 131-134, 1960. Ibid. Vol. 9, 161-164, 1961.  Exptl . Cell  Res. Vol. 24, 559-564, 1961.  Cancer Res. Vol. 23, 131-139, 1963. J. Histochem. Cytocchem. Vol. 12, 429-437, 1964. などの論文になり国際的に高く評価された。此の酵素組織化学の方法即ち、フイルム基質法も前述の Pearse の本の p. 1012 に詳しく記載されている。

 マギル大学での学位取得には英語以外の外国語、二ヵ国語の単位取得が必要で日 本語とドイツ語をとることにした。試験の答案は勿論英語で書くわけで、時間的に大変だった。試験の翌日、ドイツ語の教授に呼び出され次のように言われた。 「君はドイツ語が理解出来ていることは分かったが、英語の文章表現が弱いから次のことを約束するなら単位をだしてやる。家では妻と日本語を使わず英語で会 話をすること。一週間に一度は英語の映画をみること。」 勿論直ちに Yes Sir と答えて外国語の単位は取れた。しかしこれからが大変だった。人体解剖の授業では骨や筋肉の名前をすべて英語で覚えねばならず、病理学の科目では標本を顕 微鏡でみて病気の診断をする実習は満点が取れたのに筆記試験では六十点未満でビーコンをくらった。私立大学だから一ヵ月後に三十ドル支払って再試験を受け なければならなかった。実は二度目も六十点未満だった。学位を取ることを諦めて帰国しようかとも思ったが何とか三度目でやっとパス出来た。

◆世界最初の発見−核小体でのRNA合成◆

 研究の方は非常にうまく進み高等動物の RNA は核内で合成され、細胞質へ移動することを世界で初めて証明出来(Exptl. Cell Res . Vol. 20, 250-253, 1960)、 アメ リカの学会での発表は大成功で一躍有名人になった。世の中は不思議なもので同じ時期に、同じ疑問をもち、材料は違うけれども同じような方法で解決しようと 考える人が世界中に必ず三名以上居るものだ。アメリカのWoods (ソラマメの根端細胞)とスコットランドの Sirlin (カエルの初期胚)と私である。

 核内で合成された RNA が最終的には細胞質へ移行するとの点では三者とも同じ意見だが、核内に存在する顕微鏡で観察出来る二つの構造物、即ちクロマチンと核小体(仁)を考慮に入 れた移行の過程の解釈は三者三様で異なっていた。Woods (Brookhaven symposia in Biol. Vol. 12, 153, 1959) は RNA が先ず最初にクロマチンで合成され、核小体に移動し、しかる後に細胞質へ出ていくと主張した。Sirlin (Exptl. Cell Res. Vol. 19, 177 1960) は初めに核小体で合成された後クロマチンへ行き、最終的には細胞質へ出ていくと論文に書いた。私はネズミに放射性物質を注射した後、非常に短い時間後に処 理した試料でも、すでにクロマチンでも核小体でもRNA は合成されているとの実験結果を発表した。その後半年の間、さまざまな場所でさまざまな議論が巻き起こった。私は更に実験結果を数量的に解析した結果を根 拠にして、クロマチンと核小体で合成された RNA のうち細胞質へ移行するものの大部分は核小体で合成されたものであることも主張した。結果的には私の結論が正しかった。

 J. -E. Edstroem (J. Biophys. Biochem. Cytol. Vol. 8, 47-51, 1960)は実に巧妙な実験で私の結論を支持してくれた。即ちクモの卵細胞の核小体、クロマチン、細胞質それぞれのごく微量の RNA を加水分解した後、絹糸上で電気泳動して染色し、顕微分光測光機で各々の塩基の量を調べ RNA の塩基組成を比較し、細胞質の RNA は核小体由来であるとの結論を導き出した。英国の論客H. Harris は代謝回転速度を考慮して反論の論文(Biochemical J. Vol. 73, 362-369, 1959)を出した。

 私はこれらの論文を引用して今までの仕事をまとめた総説を書いた (J. Histochem. Cytochem. Vol. 10,  162-174, 1962. )。私の主張はその後の分子生物学的研究成果も含めて現在の生物学の教科書には次のように書いてある。「大量のリボソ−ム RNA は核小体で合成される。 クロマチンではその細胞に特異なメッセンジャ−RNA が合成される。これらの核内で合成された RNA はそれぞれ特定のタンパク質と結合して細胞質へ移行し、タンパク合成に重要な役割を果たしている。」  核内での RNA 合成の構造と機能との関連性の解明は高く評価され、国際的に広く使用されている組織学の教科書 (A. W. Ham "Histology 5th Ed." J. B. Lippincott Company p. 34, 106, 107) に記載されている。

 カナダから帰国して五年も経って非常に嬉しい経験をした。核内での構造物と RNA の合成部位との関係は長い間アメリカ人によって世界最初に発見されたものだと思われていた。このような題目論文のIntroduction や Discussion にはアメ リカ人 L. Goldstein の論文が必ず引用されていた。研究成果の先陣争いでは日本人には考えられないような熾烈な戦いをするアメリカ人だが、Goldstein は善良な人だったので、国際的に有名な細胞生物学雑誌 J. Cell Biology Vol. 31, p. 195, 1966 に Brief Notes: A Retraction (取り消し、撤回の意味)の一文を載せてくれた。「今後世界で初めて核内での RNA 合成と構造物の関係を発見し発表した論文を引用する時には Goldstein ではなく M. Amano and C. P. Leblond Exptl. Cell Res. Vol. 20, 250-253, 1960 を引用せよ」 と書いてくれた。このようなことは長い研究生活の中で初めての経験である。アメーバを使って面白い研究をしている人だとは知っていたが、こ れを機会に良き友人になった。

 更に嬉しい事があった。G. Wolf はテクニックとしては地味な銀の粒子の数をかぞえ、顕微分光測光機でトルイジン青の濃度を計りそれらの値をもとにして、生物学上重要な問題である核内の RNA の合成部位と移行に関して定性的なことのみでな く定量的な結論まで導き出したことを高く評価してくれた。彼の本 Isotopes in Biology、 Academic Press 1964 には私の論文 Exptl. Cell Res. Vol. 20, 250-253, 1960 の実験方法と結果を詳しく引用して次のような文章を書いてくれている。

A plain clear-cut answer to a plain clear-cut question----a model of how a scientific experiment should be conducted.


◆学位取得後の流転人生◆

 四年間の厳寒モントリオール生活でやっと学位取得の可能性が見えてきた。 カナダとアメリカの大学や研究所から良い条件の就職依頼が来たが、四年も生活しているとアメリカ大陸の白人が日本人を如何に差別しているかが身に浸みてわ かるようになっていた。丁度その時ブラジルから来ていた友人 Jose Carneiro (非常に良い組織学の教科書 Basic Histology LANGE Medical Publications の著者の一人) がブラジルでは日本人を差別しないでむしろ尊敬している。是非サンパウロ大学へ来ないかと強く勧めてくれた。色々なことを話した後、妻と二人でブラジルへ 行き、そこで一生涯生活しようと決心しかけたとき、話が教科書や授業のことに及んだところ、それらはブラジル・ポルトガル語でやらなければならないことが 判った。Jose は英語を話す人ならばポルトガル語をマスタ−することは簡単なことだと思っていたようだ。私にとって今から更にポルトガル語を勉強することは大変なことな ので、必死で日本で働ける職探しを始めた。

 五月のよく晴れた日、盛大な卒業式ではレンタルの房のついた帽子とガウンを着て多くの人達に祝福され、羊皮紙にラテン語で書かれた Ph. D. (Doctor of Philosophy) の卒業証書を手にした。学位取得後も、しばらく日本での職が見つかる迄モントリオールで研究生活を続けた。嬉しいことに、当時山口から岡山大学医学部解剖 学教室へ移っておられた尾曽越先生から、理学部出身者でも医学関係の Ph. D. 保持者なら将来日本の医学部で教授までの昇進は可能になるだろうから帰って来いとの御手紙を頂いた。

 カナダへ来る途中、ハワイや米國西海岸は見てきたので今度はヨーロッパ回りで帰国することにした。飛行機でイギリスへ飛び、ロンドン、パリを見物 し、車を借りてロワール河ほとりのお城めぐり等を楽しんだ。オランダ、ドイツ、スイス、オーストリアでは田舎の、今頃の言葉では民宿に相当するガストハウ スに泊りながらの旅をした。のんびりし過ぎて、イタリアでは予定していたナポリ、ローマを回ることが出来なかったが、一ヵ月の旅行ののち乗船前日には無事 マルセイユに到着した。ほっとしてワインを飲みすぎ悪酔いをしたが、フランスの客船でゆっくり中近東やアジアの港をめぐり無事神戸港へ帰国した。

 帰国後、岡山大学医学部解剖学教室の講師、国立がんセンター研究所・生物学部・細胞生物学研究室室長、米国シアトルのワシントン大学解剖教室助教 授として働いた。その後、幸運にも故郷広島で職を得ることが出来た。母校である広島大学総合科学部(元教養部、広島高等学校)では教授として文理統合の理 念に基ずく研究教育に携わることが出来た。広大定年退職後、更に広島工業大学環境学部に再就職し教育に携わって来た。カナダから帰国以後の色々な職場での 波瀾万丈な生活の中でも面白い話が沢山あるが別の機会に書くことにする (2001年3月)。


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