© 1996-1997, Kyu-hachi TABATA
ヘルシンキだより #20 1997-10-29 記
10月15日ごろから降り続いた冷たい雨が木々の葉をほとんど落としてしまいました。
21日から冷えこみ、毎朝の気温は零下5度。25日で夏時間が終わり、時計を1時間遅らせます。日本からの時差は-7時間となりました。
今年の夏は200年に1度とまで言われたすばらしい夏だったのですが、それに続く秋もすばらしく、紅葉が例年より鮮やかでしかも長く続きまし
た。この1年間、家族3人が無事に過ごせた事、たくさんの温かい人々に出会えた事、そしてすばらしい夏を経験できた事を幸せに思います。
いよいよ帰国です。
20-1 Irma が名誉博士号を授与される(10月20日)
スウェーデン・ヨーテボリ大学から、Irma
が名誉博士号を授与されました。証書はスウェーデン国王の名のもとにラテン語で書かれた立派なものでした。いつものコーヒールームでお披露目があり、ケー
キをみんなで食べました。
20-2 初雪〜タンペレ訪問(10月21日)
朝起きるとうっすら雪景色。ヘルシンキの初雪です。折りも折り、今日は火曜ですが休みを
とっておりました。昨日で Immuno Work が済み、一区切りついたからです。
VR(国鉄)で2時間ほど北上して、タンペレ Tampere
へ。雪は無く、空も雲ひとつ無いすばらしい天気でした。駅で「タンペレ通信」の西澤さんが出迎えてくださいましたが、こんないい天気は10日ぶりぐらいと
のこと。早速、サルカンニエミ(水族館・美術館・遊園地などを持つ複合レジャーランド)にあるナシンネウラ展望タワー(高さ168m)へ場所
を移し、すばらしい天気と景色を楽しみました。フィンランドは平坦な国ですから、どこまでも見えるのです。西澤さんと別れたあと、家族3人で
展望レストランに入り、最後のフィンランド風料理を楽しみました。
展望タワーを下りてからは、水族館へ。こじんまりとしたものですが、それでも初めての魚
や久し振りの魚が結構ありました。チョウザメが何匹もいたのは、やはり産地に近い強みでしょうか? 綾子も結構、楽しんでおりました。このあ
とは、対岸の丘にある公園で綾子を遊ばせてから、ハメ博物館に行きましたが、あいにく休館中。その足でタンペレ市立図書館へ行き、階下の鉱石
博物館へ入りました。すばらしい展示でした。
そして同じ階にある「ムーミン谷」へ。ここはトーベ・ヤンソンの原画を多数常設しているいわばムーミン博物館。来フィン前から、ずっと楽しみ
にしていたところです。まず驚いたのが、原画の多くが最初から挿絵サイズ(=原寸に近い)ということです。これがどうして驚きかというと、絵
が大変、緻密だからです。また、白と黒の対比もいっそう鮮明でした。一方、水彩画などでも色使いと筆使いがすばらしいものでした。子供の時に
記憶に焼き付いたいくつもの絵の原画が、そこにありました。
このあとは、アレキサンダー教会、大聖堂などを見てタンペレ駅へ。ヘルシンキに戻ったのは夜8時すぎでした。新しく降った雪のせいで市内は白
さを増していました。
振り返ってみると、フィンランドに来て最初の旅(=今井先生にお世話していただいたロバニエミ小旅行)も「雪+列車の旅」でしたが、今日も同
じ。道中、車窓からハメンリンナ(=ハメ城)を見ることができて、フィンランド3古城すべてを見たことにもなりました。子供の時以来、胸に
あったムーミンの世界の原点にも触れることができました。いつも天気に恵まれましたが、今日もそうでした。まさに最後の旅行にふさわしいもの
となりました。
20-3 たくさんのお別れ
綾子の初級バレエ教室は
23日が最後になりました。日本語補習学校は、25日が最後。運営委員の引き継ぎもすませました。たくさんの方々とここで出会う事ができまし
た。私自身が楽しめました。
綾子の幼稚園
Pa"iva"koti Louhikko は
28日が最後になりました。綾子のために送別会が開かれ、しかも通訳の古河さんという方もこられていました。私達、両親も出席させてもらいました。私に
とってはじめての来園です。Riitta、Annele、Roxana
の3人の先生が手際良く子供達をまとめておりました。綾子はひとりひとりから「空想の」プレゼントをもらったあと、記念にヴィリヨンカ(ムー
ミンに出てくる登場人物)のぬいぐるみをもらいました。そのあと、フィンランドと日本の旗の形をしたケーキをみんなで食べました。すべて、
Pa"iva"koti のスタッフによる手作りのものでした。
家具や荷物もどんどん手放してゆきました。ソファや掃除機は管木さん、机や本棚、テレビなどは Carlos、フトン・ベッドは
Jonne、小物などは Orpo さん、後に入る Hannele は洗濯機やキッチンテーブルを買ってくれました。
20-4 仕事が終わる
免疫染色の結果を出し終えたのが 20日。データをすべてまとめて Irma と Discussion したのが
24日。あらかじめ電子メールで今後の計画などを提出しておりましたので、短時間で話が終わりました。26日にすべての画像データやプロトコールをコピー
した CD-ROM を作成。27日早朝、自分の作った免疫組織標本を顕微鏡撮影。フィルム 10 本になりました。2時間現像の DPE
ショップに出して、うまく撮影できているのを確認。これで、準備完了です。PC
ファイルと標本のすべてをこのラボに置いてゆくことができます。私は CD-ROM 4枚とフィルム 10 本だけを持ち帰ります。
27日朝は定例グループミーティングで初めて自分のデータを公開しました。in situ が OHP で 2 plates,
Immuno が OHP で 7 plates になりました。これに Introduction と Discussion の
sheets を加えて、15 分程度のものにしました。終わってからの Talking discussion が 10
分ほど。わたしがこのラボでやれることはすべてやり終えました。あとは、他のメンバーがやってくれている仕事の結果を待つばかりです。そして、データがよ
り確かなものなったら、Irma が cordinate してくれるはずです。
ミーティングの終わりに Irma
から温かい送別の言葉をもらい、記念の品をもらいました。ヘルシンキ大学のマークとフィンランドの伝統的な模様が織り込まれたネクタイでした。私はこの2
月にレビで撮った夕焼けの写真を半切に伸ばして額にいれたもの、日本を紹介する本と日本の風景写真の CD-ROM をわたしました。
20-5 ヴァンターへ、日本へ(10月29日)
28日から荷詰めを開始。14:00 に Carlos が来て、机や本棚、テーブルなどの家具とTVを持って行きました。
29日は 9:30 から Orpo さん、Tarja さんが来てローテーブルや家電品・雑貨を 10:00 には Jonne が
Futon ベッドをそれぞれ持って行きました。10:30 からは Hayato
が車で来てくれて、まず郵送荷物を送り出し、そのあと私達の鞄類を積んで一足先に大学へ。12:00 には後に入る Hannele
が来たので、引き継ぎを行いました。
この頃は、毎朝−5度。昼でも2度ほど。しかし乾燥しているせいかそれほど寒さを感じません。フラットをあとにした私達一家は、歩いて研究所
へ。最後の散歩の様です。
大学では、Irma
に組織切片などをすべて引渡し、別れの挨拶をしました。ユニカフェで遅めのランチをはさみ、たくさんの人々に別れを告げました。Johanna
には、感謝の言葉と Tabby の仕事の行く末を述べました。彼女は最良の共同研究者であり、よき友人でした。
研究所からヴァンターのヘルシンキ空港までは Hayato と Pekka
が車で送ってくれました。空港では管木さんが待ってくれていました。少しばかり、話をしてゲートをくぐりました。飛行機は定刻の 17:20
に出発。飛び立ってまもなく、ヘルシンキ上空を旋回し、夜景が窓いっぱいに広がりました。やがて、飛行機は東へと機首を向け、あとはただひた
すら飛ぶだけ でした。