© 1996-1997, Kyu-hachi TABATA
ヘルシンキだより #7      1997- 2-17 記

何でも今世紀最高の暖冬だとかで、1月末ごろから寒さがゆるみ、+4度ぐらいの日が続きました。街の雪が溶けてしまい道はあちらこちらぬかる みになり、降る雪もしばしばただの冷たい雨になります。-8度ぐらいの気温のほうが、湿度も低く、雪もさらさらで、却って寒さを感じにくい気 がします。


7-1 ラップランド再訪(2月2日〜9日)

オーロラが見たい一心でラップランド再訪を決めました。フィンランド人はオーロラに殆ど関心がありません。「オーロラ」という言葉を知らない ことが多く、Northern Light (=極光)とか、レボントゥリ(=キツネの火)などといわねば通じません。また、いつどこで見れるかの情報もフィンランド国内では入手が困難です。そうし た中で、いろいろと情報集めをし、レビのシルカンタハティ・ホテルに5泊、ロバニエミのスカイホテルに2泊の宿泊を決めました。幸い、フィン ランドでは2月にスキー・ブレークという1週間の休みがあり、これを前借りする形になりました。

2日の昼、ヘルシンキ発、約1時間の空の旅でキッティラ空港へ。そこからバスに乗ってレビのシルッカ村まで行きました。借りた部屋は、キッチ ン付き、サウナ付きのロッジ風の部屋です。早速、すぐ近くのスーパーに行き、いろいろと買い込みました。帰りに見えた夕焼けがとてもきれいで した。この国の太陽の軌道は、地平線に対してかなり低く、またその角度が浅いため、朝焼けと夕焼けをとても長い時間、楽しむことができます。 また空の色が広い範囲にわたって鮮やかな朱色に染まる様子は見事なものです。

そして、この日の夜、すばらしいオーロラを見ることができました。緑の蛍光色なのですが、色が強く鮮やかで、ピーク時には波打ったり、色の強 弱が見られました。まるで生きているようでした。この後も、2日に1度ぐらいオーロラを見ることができましたが、初日のオーロラをしのぐもの には出会えませんでした。

4日、スノーモービルを楽しみました。途中、山道や凍った湖などを通りながら26km を走り抜きました。操作は簡単で、スピード感も抜群、景色もすばらしく、私は綾子を手前に乗せて走りました。潤子もなかなかの腕前でした。た だ、私はあともう少しでゴールというところで、マシン操作を誤り、ミスコースして、雪にスタックしてしまいました。立ち往生です。みんなは先 にいってしまい、綾子と二人雪原に残されてしまいました。15分後ぐらいにリーダーが来てくれて、あっという間にスタックから脱出させてくれ ました。やはり大型のバイクと同様、取り回し方にコツがあります。楽しい経験でした。

5日、クロスカントリースキーを楽しみました。ゲレンデの下の方で、綾子(生まれて初めて)と潤子(殆ど初めて)にコーチしながら、私も何年 かぶりのスキーを楽しみました。子供の頃、父に教わった時のことを思い出しながら、綾子にスキーを教えました。

6日、クロスカントリースキーのコースを親子3人で滑りました。最初はレビ山を1周するコース(24km)を滑っているつもりだったのです が、いつのまにか 5.5km のコースを滑っていました。それでもたっぷり時間がかかり、何と3時間半もかけてやっとゴールにつきました。すばらしい天気の日で、コースも美しく、ウサ ギやキツネの足跡もしばしば見られる中、スキーを楽しみました。

7日、長距離バスに乗り、レビからロバニエミへ移動。一旦、ロバニエミ駅で荷物をロッカーに預けて、サンタ村へ。ラップの民芸品や土産物を物 色しました。そして、ロバニエミのスカイホテルへ。ところが、このホテル、外の音がうるさいし、部屋は寒いし、何と床にガラスの小片がいくつ も落ちているし、、、で、これは我慢出来ないということで、急遽、ホテル・オッピポイカ(前回、利用したホテル)に宿替えしました。

8日、疲れもたまっていたので、ゆっくり静養。3時頃、綾子と2人で近くの Arkticum (ラップランド博物館)に行きました。博物館などに行くと退屈している綾子が、今回は楽しげでした。

9日、ロバニエミからオウル経由でヘルシンキへ。オウルから私の後ろに乗って来た女性は、あとでエアポートタクシー(乗り合いタクシー)でも 一緒になり、そこで話をしました。何と、彼女も Researcher で、アラブドプシス(アブラナ科の植物)の分子遺伝学が専門の Outi Savolainen という人でした。私のフラットのすぐ近くにある Finland Academy に用があってのヘルシンキ訪問だとのことでした。

7-2 オーロラ撮影

オーロラを見た瞬間、これはすばらしい、でも写真に撮るのは相当に難しかろうと思いました。とても光が弱く、それでいて動きが速かったからで す。それでもシャッターを何度も切りました。後日、撮影に成功していることがわかりました。

カメラは、Canon FX という古い(=30年ぐらい前の)カメラです。FL 55 mm F1.2 という明るいレンズをつけている(=暗さに強い)のと機械式シャッター(=寒さにも強い)なのが選択の理由です。また、フィルムはなるべく感度のいいもの と考えて、Fuji PROVIA ASA 1600 を入手し、ASA 3200 (P-3)として使用することにしました。通常、ASA 400, F2.8, 20〜30 sec, 三脚使用がオーロラの撮影条件だそうで(写真家、門脇久芳氏)、これを参考に、ASA 3200, F1.2, 1〜1/2 sec, 手持ち撮影でシャッターを切りました。

子供の頃、この FX で父が家族の写真をたくさん撮ってくれました。中学生の頃、この FX で私は写真の撮り方や面白さを覚えました。大学のころからもっと便利なカメラを使う様になり、10年近く動かしていませんでした。それがたたったのか、今 回の撮影行の途中で、シャッターが降りなくなってしまいましたが、撮った分については、満足出来る写真でした。修理が可能なら、まだまだ私の 道楽に付き合ってもらおうと考えています。

7-3 Hyun-Jung の帰国(1月23日)

Hyun-Jung Kim(愛称 Rosa)が1年半の研究を終えて、韓国に帰国しました。直前まで in situ のデータをとり続け、論文を書くために何日も徹夜をし、お別れパーティ(17日) では心のこもったスピーチをし、最後のミーティング(20日) ではこ れまでの成果を紹介してくれました。彼女は教室の誰からも愛されていました。最後の日(22日)
は、彼女はコンピュータルームにこもって、David Rice とデータ出力を行っていました。研究室のみんなが、時には数人で時にはひとりで、彼女に別れを告げて、帰宅して行きました。この日、彼女は誰よりも遅くま でラボに残っていたのだと思います。そして、23日の早朝の便で、帰国しました。

7-4 Anja Tuomi の還暦祝い(2月11日)

Irma のラボの最古参の技官 Anja Tuomi の60才の誕生日を祝う小さなパーティがセミナールームで行われました。彼女こそが歯胚培養のための歯胚とりだしにテルモの注射針を使うことを考案した人 であり、今でも最高の腕を持っている技官です。Anja はパーティの間もいつもの白衣の格好で、みんなからの祝福を受けていました。

Anja は現在、ヘルシンキ郊外で御母さんの看護をしているため、月に2〜3度しかラボにこれません。彼女でないとできないオペレーションがあるので、「Anja がいつもいればなあ」という愚痴をしばしば耳にします。いつか私も彼女と一緒に仕事ができたらよいのですが。

7-5 EMBO の評価(2月14日)

EMBO (欧州分子生物学連合)が、ヨーロッパ第1の研究施設として、生物工学研究所を選んだとかで、ユニカフェ(研究所のレストラン)でディナーパーティがあり ました。

7-6 部屋さがし(1月末)〜引っ越し(2月15日)

今の部屋があまりにも狭いので、新しい部屋をずっとさがしていました。Thomas は HOAS (学生のためのアパートを提供してくれる機関)に電話をしてくれたり、インターネットで部屋探しをしてくれたりしました。Irma と Johanna は、大学の情報誌や新聞の広告を探してくれました。そうして、やっと大学の近くの Pihlajisto という地区にあるアパートを借りることができるようになりました。大学まで歩いて15分、バスの便もよく、近くにスーパーが二つあります。周りには自然が 残り、子供が遊ぶ公園やスケートリンクがあります。アパートの床面積は 59m2 で、月 2800Mk(\70,000)です。サウナも週1回入れて、月 50Mk(\1,250)。これは結構お得な物件でした。しかし、いいことばかりではありません。大家さんへ敷金として 2ヶ月分、不動産屋へ礼金として1ヶ月分、家屋の保険を年 280Mk 払わねばなりません。また、2月は古い方のアパートの部屋代も払わねばなりません。家具なども何も無いのでそろえねばなりません。大変でした。引っ越しは 2月15日に行いました。David Rice, Thomas Aberg, Tuija Mustonen, Anne Vaahtokari の4人が手伝ってくれました。


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