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小倉高校生物部



Arachinoidiscus ehrenbergii
Arachinoidiscus ehrenbergii

Chaetoceros didymus
Chaetoceros didymus

Coscinodiscus gigas
Coscinodiscus gigas
たまたま誘われるままに入部したのだが、どっぷりと浸かっ てしまった。授業を休んでも、放課後の 部活から出ることさえもあった。私にとって高校=部活だった。

身勝手だった自分が、少しはまともになったのも、その後、生物学の道に進んだのも、間違いなく生物部のおかげだ。かけがえの ない大切な場所だった。

[以下、1977-79年当時の話。プランクトンの写真も当時のもの]



■1.倉高生物部

地元では、小倉高校を倉高(くらこう)という。倉高生物部は、いくつか面白い特徴があった。

ひとつは教員がまったくといって良いほど介入しない部だった。学生の自主性を尊重してくれていたと思う。

ふたつめは海洋プランクトン研究だけを行っていることだ。昔は植物班、昆虫班、海洋班などと分かれていたが、海洋班からプランクトン 班が独立し、いろいろあって、プランクトン班だけが残った。唯一無二のテーマに使命感や誇りを感じていた。

3つめは、OBとの交流がゆるやかだった。文化祭や夏の合宿旅行は、大勢のOBが来てくれたが、あくまでもお客さんや補助としての参加であって、 先輩風を吹かせたり、指導のようなことはしなかった。いつでも、現役学生の考えや自主性を尊重してくれていた。


■2.プランクトン研究

研究対象は海洋プランクトンで、1ヶ月に1 度、日曜に採集をしていた(当時は土曜も休みではなかった)。

朝、採集道具などを詰めたバッグを持って、北九州市立渡船乗り場に集合する。そこから、藍島と馬島に渡る船に乗り、まずは馬島で半分、藍島で残り 半分の部員がおりる。それぞれで採集場所に行って、プランクトンネットを海岸から投げ、プランクトンを採集する。集められたプランクトンは 500mlぐらいの硝子瓶に入れ、1/10量のホルマリンを加えてから(=海水ホルマリン)持ち帰る。渡船は1日に3往復していて島 民や釣り人を運ぶが、僕らは朝の便で島に渡り、最後の便で島から戻った。
北九州市の地図
また、これら以外にも自転車で若松や門司まで足を伸ばし、北九州沿岸を網羅するような採集もしていた。

こうして得られた標本は、平日の部活動の時間に、検鏡(顕微鏡観察 )して、正確な種の同定と数を記録する。3台の顕微鏡を窓際のストーンテーブルに並べて、検鏡と記録を行う。こうした活動を地道に繰り返すことで、北九州 市沿岸・藍島・馬島海域でのプランクトンの年次変化や季節変化が浮かびあがる。実際、水温や海流の影響で大きく変動する のがよくわかるし、春夏秋冬の固有種もわかるようになった。それらの発見を県内高校生物部 の研究会で発表したり、部誌「ユーカリ」に掲載した。


■3.人間関係のこと

Ceratium macroceros
Ceratium macroceros

Thalasionema
                nitzschioides
Thalasionema nitzschioides
中学までは男子校だったので、最初は「女子」との会話にとまどった。また、相手のことを考えることができなくて、実に無神経 な言動をして、強く反発されたりした。自己 嫌悪にかられて、部に行かれなくなった時期もあった。
 
2年生の夏休みごろになって、やっと考え方のちがいに気づくようになり、どうしたらよいかもわかるようになってきた。一番助けてくれたのは同輩た ちで、男女や上下に限らず、ちょっ としたことに気づくようになったし、気をつけるようにもなった。少しずつではあるが、自分が変わりはじめた。

研究は面白かった。もともと生物に興味があったので、新しいことを学び、考えるのが楽しくて仕方がなかった。だから、みんなもそうだと思っていた し、研究が何よりも優先するとさえ思っていた。また、部活動に熱心で無い(ように見える)部員のことが理解できなかった。部員ならば、もっと採集 に参加すべきだと思っていた。

でも、それで優劣が 付くわけではないのが、文化部の面白いところだ。人は人、自分は自分で楽しむのが基本であり、いろんな人間がいることを認め合わないと、物事は円滑に進ま ない。

2年生の時は、クラスの友人たちにも救われた。個性豊かな人間ほど、魅力的な人間だと思えるよ う になった。マイペースであっても、周りの人間に干渉したり、いやな思いをさせない。そういうことを自然体でやっている友人たちにも恵まれ て、自分もそれ になじんでいった。決して大げさではなく、人生が明るくなるのを感じた。


■4.部誌「ユーカリ」

Eucaly25部活動は3年生の5月で終了する。4月に新1年生を勧誘 し、5月の文化祭の前に引退する。だから、主力となるのは2年生だ。

3月に1年生の中から新しい幹事を決めて、新体制が発足する。これが4月になると2年生になるわけで、新しい幹事を中心に毎月の採集や研究を進め つつ、新たに入ってきた1年生を 育て、 5月の文化祭や8月の合宿を 行う。秋は体育祭や修学旅行に時間をとられるが、冬になると部誌「ユーカリ」の編集作業を始める。

この「ユーカリ」の編集長を任せてもらえることになった。構成を考え、分担を決め、自らもいろんな記事を書きながら、本づくりをする。作製する ユーカリは記念の25号だったので、増ページして上下巻とした。

上巻には1年間の採集記録 と自由研究などを掲載した。これまでのユーカリと大体同じ構成である。対して下巻には過去9年間のデータを合算集計して、プランクトンの種ごとに年次変 化・季節 変化・分布などをまとめたものを掲載した。ユーカリ24号で電卓が導入され、データ集計が楽になったことから実施したのだが、原稿書きは増えたわ けで、清書は手 書き、ガリ版印刷(いわゆるガリ刷り)で手綴じだったから、やっぱり大変だった。でも、部員全員が入れ替わり、立ち替わりで作業をして、完成させる ことができた。

僕が部誌にかかりきりになっていても、誰かが採集に行き、検鏡を続けてくれていた。あと一人欲しいなぁ、というときに現れる助っ人タイ プの奴もい た。その彼は「ひとりで何でもやろうとするな」とも言ってくれた。全員に記事を書いてもらったが、期待以上の出来映えだった。やっ ぱり、いろん な人間が必要だと思ったし、大勢で仕事をするときの下準備の大切さや、意思疎通の重要性もよくわかった。そして、出来上がったときのみんなの笑顔も忘れら れない。かけがえのない経験であったと思う。

Eucaly のページ
Eucaly のページ
Eucaly のページ
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