© 2013-2024, Kyu-hachi TABATA last updated 2022/04/19


日当山侏儒どん



ひなたや ま・しゅじゅどん、と読む。
日当山とは霧島山系から南に下ってきたところにある鹿児島の地名。日当山温泉でも知られている。

侏儒どんは、この日当山の地頭であった実在の人物で、本名は徳田大兵衛(とくだおおひょうえ/とくだたへえ)という。生没は 1584年〜1634年3月4 日であるから、50歳の人生。身の丈3尺(約90cm)と小柄であったため侏儒どん(小さなお人)と呼ばれた。とんちの名人で、民衆からも島津の殿様 (家久、光久)からも愛された。御伽衆(おとぎしゅう)のような役目もしていたようである。


■1.伊地知信一郎 「日当山侏儒どん」

日当山侏儒どん 伊地知信一郎

伊地知信一郎
『日当山侏儒どん』
三州談義社、1968年
侏儒どんを知ったのは、父が鹿児島出張の際に、この本を買ってきてくれたからである。

作者は伊地知信一郎(いじち・しんいちろう)さんという郷土作家。鹿児島 には小さな出 版社が多 く、そうした中のひとつ、三州談義社から出されていた。もしかしたら、自費出版本だったのかもしれない。大人向けの本であったが、挿絵も多く、文章も平易 であったから、夢中になって読んだ。鹿児島弁のこともわかりやすく書いてあって面白かった。普通ならば、聞き取れない鹿児島弁も書き言葉とし て見 ると読み取れるということなのかもしれない。

戦記ものや維新もので使われる鹿児島弁は実に猛々しいが、侏儒どんの鹿児島弁は、なんだかとぼけたところ があり、こっけいでもあり、丁寧でもある。読んでいると、鹿児島弁は実は丁寧な言葉であり、相手に対する敬意や自分に対する卑下が込められているのもわか る。侏儒どんが自分を笑い者にして、皆 を納得させるよ うな場面では、鹿児島弁の素朴さがうまく馴染む。相手をやりこめるとんち話でも、鹿児島弁だと、ほどよくやわらかくなる。

九州のとんち者といえば、熊本の彦一(ひこ い ち)と大分の吉四六(きっちょむ)がいる。前者には、天狗 の隠 れ蓑、キツネの化け比べなどの話しがあり、後者には、どじょう鍋、どじょう取り、など人をだますような話もある。対して、侏儒どんの場合は、肩書 きのある人間であるためか、権力者をやっつけるような話はあまりない。ほとんどが、 仕事の話や殿 様との他 愛もない話、世知辛いことや切ないことなどをとん ちで和ませるような話、若い者を助けるために知恵を絞る話などである。また、ぶしつけな言葉やからかいをは ねのけるような話や、自分のことを笑いの種にするような話もあって、そのおおらかな人間性に救われる。

全70話と話数が多く、子ども時代の侏儒どん、江戸での話、地頭としての話、侏儒どんの最後まであって、侏儒どんの生涯が伝わっ てくる。自らを「ぼっけもん」(呆け者、ちょっと抜けている者)と言っていた侏儒どん。鹿児島の言葉を好きになれる本でもある。

追記:三州談義社は1957年から、郷土雑誌「三州談義」を出版していた会社 であり、この本もその連載をまとめたものと思われる。同社は、1978年から「随筆かごしま」を創刊し、随筆かごしま社となった。同社の社 主、上薗登志子(かみぞのとしこ)氏は、2023年10月 19日にご逝去された


■2.椋鳩十 「日当山侏儒譚」、「日当山侏儒物語」

日当山侏儒譚 椋鳩十

椋鳩十
『日当山侏儒譚』
理論社、1983年

日当山侏儒物語 椋鳩十

椋鳩十
『日当山侏儒物語』
ポプラ社、1980年
椋鳩十(むく・はとじゅう)の採話である。

ひとつは「日当山侏儒譚(−たん)」で大人向け。1954年から南日本新聞 に連載していたものだが、書籍になったのは 1983年で、全40話。あとがきには、少し創作を加えた ことも書いてあった。

もうひとつは「日当山侏儒物語(−ものがたり)」で子供向け。ポプラ社の椋鳩十全集刊行の際に書き下ろされたもの(1980年)。全22 話あって、上記の新聞連載のものから子供向けの話を選び、手直ししたものだ。

方言は極力使わず、標準語で書かれている。この点で伊地知版とはだいぶ異なるが、不思議とさほど の違和感や表現不足を感じない。感心したのは、たとえば、鹿児 島の台風がいかにすごいか、雨がいかにすごいか。それらを鹿児島の風物や気候に馴染みのない読者にもわ かるように書いてある。

椋鳩十は長野出身であったが、大学卒業後、鹿児島県加治木町の教員となって生活しながら、児童文 学や動物文学の執筆を続けた。後年は鹿児島県立図書館の館長までなったが、最初のうちは言葉も習慣も気候も違うから、大変だったのではないかと 思う。鹿児島のことを上手に紹介できるのは、そういう彼ゆえだろうと思う。


■3.半仙子 「日当山侏儒戯言」

日当山侏儒戯言

半仙子
『日当山侏儒戯言』
久永金光堂、1913年
半仙子とあるのは、加藤雄吉という人の別名らしい。100年以上前のものだ。

鹿児島の久永金光堂という書店による発行で、現在は国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧できる。まえがきに文化13年に伊地知季安(いじ ちす ねやす)という学者が書いた本に「徳田大兵衛答話物語」と「徳田大兵衛日記」のふたつの書目があることや、徳田大兵衛の墓が興国寺墓地にあること なども書いてあった。

本文は旧かなづかい、旧字であるから、少々、読みにくいが、すべての漢字にルビが振ってあってなんとか読むことができる。しかし、それでも今 では めったに使わない言葉も多い。


<関連・参考 Web>
Wikipedia 徳田大兵衛
日当山侏儒どんの伝説とト ンチ 話
椋 鳩十の生涯
国会図書館・近代デジタルライブラリー/日当山侏儒戯言
編集工房スワロウデイル/138 日当山侏儒戯言



とびら へ 前へ 次へ
↑ トップへ