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1.17 阪神・淡路大震災の記録



1995年1月17日 (火)5時46分。大阪・神戸・淡路島を震災が襲いました。淡路島の北端沖 を震源とするマグニチュード 7.1 の大地震でした。兵庫県を中心に死者 6,434名、負傷者43,792名、全壊家屋 104,906棟という、甚大な被害をもたらした地震でした。

当時、私は大阪・高槻市に住んでいて、 大阪大学の吹田キャンパスに通勤していました。関西は地震がほとんど無い地域と思っていたので大変驚きました。公私ともに、 備えらしい備えがまったくありませんでした。


■1.当日の様子

早朝、 何か異常を感じて目が覚めました。

小さな揺れが続いたあと、突然、大きな揺れがやってきました。家族3人で寝ていたのですが、周囲のタンスなどが倒れ るのではないかと いう 揺れでした。子どもの上にかぶさり、家内を引き寄せて、四つんばいになって、タンスの転倒に備えました。関西でこんなに大きな地震に出会 うとは・・・と頭の中で考えながら、歯を食いしばって揺れに耐えました。

揺れが止まると、テレビニュースで震源が神戸の方だと知りました。やがて、長田地区から出た火がどんどんと広がって いくのがわかりま す。 高速道路の橋桁が落ちているところや、海岸が落ちてしまっているところも見え始めました。

大学へはバイクで行きました。幹線道路はいつもの2倍ほどの渋滞でした。抜け道の抜け道を選ぶようにして、大きく迂 回しながら大学に 向か いました。

研究室はほぼ無事でした。落下した薬品などはごく数本。危険な試薬ではなかったのが幸いでした。ただ、冷蔵庫、遠心 機、インキュベー タ、 試薬棚など重い物でも結構、動いていて、倒れていたら大変だったと思いました。

学生は欠席したものが居たようでしたが、どちらかというと少数。意外と大丈夫だったというのが当日の感想でした。


■2.教育や学生の混乱

混乱はゆっくりと後から生じてきました。断層型地震であったため、被害は神戸と淡路に限局していたのが原因、そして大学側も 判断が甘かっ たのが原因だと思います。

神戸に自宅がある学生たちは、大学に来れない状況が続きました。自宅が倒壊した学生も何人もおりました。そうした学生に対す る配慮が全く されなかったこともあって、2月の試験期間になって、それが大きな混乱を生みました。

私立大学などの対応は見事で、震災の日から、ラジオを使って、休講の通知や、試験期間の延期などの通知をしていましたが、大 阪大学はそう した対応をしませんでした。携帯電話などがまだ普及する前の時期でしたから、被災者への通達をどのように行うか、もっと大学側は考えるべ きでした。


■3.大学の被害

新築の医学部の建物に大きなひび割れが出ました。歯学部の建物は特に大きな被害はありませんでした。

ただし、歯学部の標本室では、ガラス容器の落下が多く、固定液のホルマリンなどが大量にこぼれ出て、猛烈な刺激臭の中、教室 員総出で対応 しました。骨標本も落下により壊れたものがありました。被害甚大でした。

大学のすぐ北側には国道171号線がありますが、これが神戸につながる大動脈ともいえる幹線道路でしたから、走行規制ができ て、神戸に物 資を運ぶクルマのみが走行を許されましたが、それでも連日の渋滞でした。


■4.被災者たち

数日たつと、JRの駅な どに、神戸から避難してきた方々が、呆然とした顔をして立っている姿が見られるようになりました。この地震は、非常に局所的な地 震で、神戸の長田地区などを少し離れると、あまり大きな被害が無く、それが避難してきた方々に大きなショックを与え ました。

死者6,435名、行方不明者 2名は、戦後もっとも大きな震災でした。

大学で解剖実習が始まると、震災の時のことを思い出して、立てなくなる学生が居りました。試験をいくつも受験できな くて、進級が危ぶまれ る状況になった学生も居りました。そうしたことに対する大学の対応の鈍さに父兄が激しく抗議されたこともありました。私にとっては、大学 のあり方、教育のあり方、学生ひとりひとりとどう向き合うかを考えるきっかけとなった大きな出来事でした。


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