© 2012, Tatsuyuki KAMIRYO ネアンデルタール人を推理する

15  石刃、首飾り、顔料


 前の項でキビシュ人と書いたのは、ヘルト人と釣り合わせるための僕の一存です。大概は「オモ一号」、「オモ二号」とよばれています。当初の年代 測定では共に約十三万年前とされていました。ただし、二号がかなり古代的であるのに対して一号が現代的だったので、これは現代人の骨じゃないかと 疑われたほどです。そこへ、それほど離れていないヘルトから初期のヒト化石が出て、約十六万年前となったから、オモ(キビシュ)の骨の見直しが行 われたわけです。

 さて、初期のホモ・サピエンスが残した石器ですけれど、これを調べるのは大変でした。「ジーン・アウ ルを動かした花粉」の項で、すでにムスティ エ型石器という言葉を使っています。この名前は、この型の石器が最初に見つけられたフランスの地名に由来しています。他の石器文化の名前も、ほと んどがフランスの地名からきています。唯一の例外が、最初期の原人、ホモ・ハビリス(器用なヒトという意味)が遺した石器です。彼らはアフリカを 出ていませんから、フランスの地名はつけたくてもつけられずに、タンザニア北部のオルドゥヴァイに因んで命名されています。そんなわけで、まだア フリカから出ていない初期サピエンスの石器文化は、キーワードに乏しいのです。

 これを助けてくれたのは、皮肉なことに、島 泰三さんの『はだかの起源』についていた付録の表です。そもそもこの連載は、島さんのこの本に触発さ れてのことでした。チンパンジーみたいなサルと現生人のあいだに、何体かの人類を並べて、一段階ごとにそれらの姿勢をよくして背丈を伸ばし、毛む くじゃらの体毛を徐々に減らしてハダカのヒトへと導く、それを胡散臭いと思っていたときに、「ハダカになったのはヒトだけで、ネアンデルタール人 には毛皮があった」、と結論なさる島さんの本に出会ったのです。この連載も、教科書の第9話も、島さんへの応援歌みたいなモンなのです。トマス・ ハックスリーがダーウィンのブルドッグなら、僕は島さんの、まぁ、斜に構えたポチくらいでしょう。あの一月の寒い日、彼が放水と催涙弾を浴びてい た安田講堂を横目に、僕は知人の結婚式に出ようと本郷通りを小走りしていたのです。応援歌くらいつぶやかないと義理が立ちません。

 そんなわけで、この連載の結論も「ハダカになったのはヒトだけで、ネアンデルタール人には毛皮があった」、としたいのです。けれど斜に構えてい るから、枝葉末節では反抗したくなります。その途中で島さんに助けられたのですから、皮肉だと申しました。さてその「付録の表」ですけど、表の中 の活字だけがやけに小さい。高さがせいぜい一ミリ、老眼鏡をかけていても読む気にならずに、今まで真面目に見ていませんでした。このたび拡大コ ピーを取ってつらつら眺めてみますと、東アフリカのカプスリンでは二十八万年前の、同じくガデモッタ遺跡からは二十三万年以上前の、石刃(せきじ ん)が見つかっている、と書いてあったではありませんか。ガデモッタのほうだけは裏が取れて、年代は二十六万七千年前になっており、材質は黒曜石 だとわかりました。再調査に加わった地質年代学センターのレンネ所長は、従来の石器からの変化を、「牛に曳かせる荷車から自動車へ移行したような ものだ」と評したそうです。なお、この年代については、「二十三万年前より古いことは確からしいな」、くらいが健全な受け取り方だと思います。

 「石刃」というのは、刃物として使われた石器、という以上の意味をもつ学術用語です。サピエンスの発案品らしくて、ネアンデルタール人が営んだ シャテルペロン文化でみられる石刃によく似た尖頭器は、初期サピエンスの石刃を模倣した工作物だというのが定説です。石でできた包丁だけれど、柄 に差し込む部分はありません。初期サピエンスが石刃を作っている現場は、人類学の専門家でも見てはいないはずなのに、その作り方がいろいろなとこ ろに書かれています。黒曜石や安山岩、讃岐岩(サヌカイト)などのような硬い石を打ち欠いて、底面の直径よりは高さのほうが長いという程度の円錐 形の核を作ります。それから円錐の底を上にして、円周に近い端の上から力をかけて細長い薄片を剥がし取るんです。ここが難しそうですけど、初期サ ピエンスはこの技法をマスターして、ほぼ同じ規格の剥片を一つの石核から何枚も多量生産していた、とのことです。

 石刃は、包丁やナイフとして使われただけではありません。サピエンスはその鋭利な部分に加工を施して、皮なめしとか、さまざまな特定の用途の道 具を作り出したんです。ネアンデルタール人が主に使っていたムスティエ石器(僕はこの用語を、的確には説明できません)には、石核から打ち剥がさ れた鋭利なモノもあります。しかしそれらを石刃と比べた場合に、牛が曳く荷車に対する自動車と喩えられてしまうのですから、相当な技術革新だった のでしょう。僕の印象でいうと、石刃に最適の材料は、黒いガラスのような黒曜石です。世界的にはアンデス山脈沿いや、トルコから黒海の東を回って 東欧までとか、日本にだってその産地はあります。でもビックリしたことは、アフリカ大陸での主な産地が、現在のエチオピア、ケニア、タンザニアに 集中していることです。初期サピエンスが出現したと思しき地域に、ぴったり合致するではありませんか。

 初期サピエンスは、石以外の、たとえば角や骨、貝殻などを使って、針などの道具類や身につける飾り物をつくることも発案しました。皮革を上手に 縫い合わせたり、穴をあけた多数の貝殻に紐を通して首飾りも作りました。首飾りといえば、『ネアンデルタール人の首飾り』を思い出されるでしょ う。しかしあの書名は、「花を手向けた」ネアンデルタール人の感情はヒトに近い、という推測が固定されそうだった時期に、彼らの能力に対して抱い たアルスアガの願望でしかありません。実際に装飾品を使い出したのは、サピエンスです。その目的は、自分を「飾る」ためではなく、他の人(あるい は族)から自己を区別するためであるはずです。自他の区別が理解されていなければ、自分を飾る意味がないからです。眼前の誰かでなく、自分ではな い他者を想い描くということは、抽象的な考え方のはじまりです。その延長線上にある「シンボル」も、サピエンスが使いはじめたんです。

 その意味で重要なことも、『はだかの起源』の付録に書かれていました。南アフリカ南岸のインド洋に面するブロンボス洞窟の遺物です。他の地名の ついた遺跡での発見も記されていましたけど、確認できなかったので紹介は控えます。確認できたものでも、島さんの本から月日が経っているせいか、 年代の推定に違いがありました。ここでは僕の責任で、三つの遺物について書くことにいたします。

 一つ目は、七万七千年ほど前と推定される小さな巻貝の殻です。サイズが揃っていてほぼ同じ位置に穴が開けられています。二十個ほどまとまってい る場合もあるので、紐でつなげて首飾りか腕輪として使われたと思われています。二つ目は、約十万年前の顔料工場です。「工場」といったのは、アワ ビの殻に入れられた赤い顔料だけでなく、砥石、ハンマーのような石器、小さな炉の痕跡、脂の多いアザラシの骨など、顔料の生産に必要な道具や設 備、それから、赤黄土(オーカー)のほかに黒い木炭や黄色い鉱物など、色の調整に使われたと思われる素材が同じ場所で発見されたからです。三つ目 もおよそ十万年前の物です。これは数センチ四角に整えられた赤黄土の塊で、表面には、数本の横線とこれと交差する数本の斜線が刻まれていました。 動物とか女性像とかそういう具体的なものではない、抽象的な、シンボリックな文様です。初期サピエンスは、少なくとも十万年前にはアフリカ大陸の 南端にまで版図を広げて、新しい文化を開花させていたことになります。


とびら へ 前へ 次へ
↑ トップへ