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2001/03/10 |
| 広大で博士(学術)を取得して、阪大の歯学部・口腔解剖学
の助手に採用されました。歯のことはほとんど知らないし、組織学や解剖学にしても系統立てた勉強をしたことがありませんでしたか
ら、毎日、研究や教育に身を削るような思いが続きました。けれど、多くの方々に助けられ、導かれて、何とか一人前になっていった
と思います。 *以下、「栗栖浩二郎教 授 退官記念業績集」(2001年3月)か らの転載。脚注と関連画像を追加 |
1992
年5月、私は着任すると、まず1研*2の
部屋を培養室とし、栗栖先生の九大時代の仕事であるラット切 歯のエナメル芽細胞の初代培養 を始めま
した。最初は栗栖先生から直々に切歯の摘出や上皮の取り出し方を教わりました。
生からHGF研究の機会をいただく
ことになりました。 HGF
研究で名高い中村敏一先生が以前、久米川先生のもとで働いていたという「人の縁」、その中村先生が
阪大医学 部に異動して来られたという「地の利」がありま
した。早速、いただいた抗体を用いて、歯の発生における分布を調べたところ、蕾状期から帽状期にかけては歯乳頭に均一に分布し、鐘状期に
なると内
エナメル上皮の分裂が盛んなところ(つまり将来の"溝")に近接する歯乳頭にのみ分布し続けることがわかりました。
1997年11月
に帰国すると、BMP4研究や
PTHrP研究が「うちのスタイル」だけでは乗り越えられない壁にぶつかっていました。
そこでま たいろいろと手を尽くし、BMP4
研究は
BMP4導入したCOS7細胞を用いてレスキューするという私のアイデアで、PTHrP
研究は培養歯胚の周囲に残る破骨細胞をビスフォス
フォネートなどで直接叩くという栗栖先生のアイデア
でそれぞれクリアしました。このころになると、教室
員
も多くなり、科研などもあたり、教室の運営は順調となっていましたが、その一方でシンポや特別講義、総説などの依頼も増え、栗栖先生は目
が回るよ
うな忙しさになっていました。栗栖先生が少し年をとられたように感じたのもこの頃で、ご自身で実験をされることが減ってきました。それで仕事を任
せていただけることが増えてきましたが、それでも、
PTHrP
に関しては、劉先生を直接指導され、最後はおひとりで論文をまとめられました(Mechanism
of Development 95:
189-200 (2000))。
■7.
九年一日のようにすぎて| とびら へ | 前へ 次へ |
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