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私のヘルシンキ時代 [フィンランドでの生活とイルマ・テスレフ教授]



ムーミン、オーロラ、サンタクロース。フインランドというとこんなキーワードが浮かぶのではないでしよう か? 音楽の好きな方なら、シベ リウス(作曲家)とかサロネン(指揮者)、ヴァルティナ(ワールドミュージック・グループ)などの名前も浮かぶでしよう。カレワラ神話や サウナなどの文化もあります。

面積は日本の国土とほぼ同じで、しかも殆ど平野部からなるにもかかわらず、人口はわずかに500万人。それ でいて、ノキアなどのハイテク産業、マリメッコやアーリッカ、アラビアなどのデザインや工芸、アールトなどを輩出したフィンランド建築、 ノルディックスキーやジャンプなどのウィンタースポーツ、ラリーやF1などのカーレースなどで世界をリードする一面を持 ちます。

そして、 私どもの“歯の発生生物学”の分野では、イルマ・テスレフ教授 (Prof. Irma Thesleff) とその研究室がへルシンキ大学にあり、世界をリードしているのです。私はこの研究室に1996年10月から1年間の滞在 研究を させていただく機会があり、家族でフィンランドの生活を楽しみました。また、今年の1月にも短期ではありましたが、再訪問の機会を得まし た。そこで、これまでの見聞を少しばかり紹介させていただこうと思います。

*以下、阪大Now No.26 (2000年)からの転載。

■1.フィンランドの生活

国語はフィン・ウゴル語族のフィンランド語。ヨーロッパ語族とは大きく異なる言語です。また、フィンランド人の由来は、隣国のノルウェー やスウェーデンの人々とは異なることが遺伝学的によく知られています。さらに北欧のなかにあって唯一の共和国(=国王がいない)であった り、国土の東側はロシアと接し、冷戦時代は何かと辛酸をなめた点でも北欧5カ国の中では違いの際だつ国です。しかし、治安がきわめてよ く、人情の機微や素朴さは日本人と通ずるところがあり、魚のおいしさ、乳製品やジャガイモのおいしさ、サウナの楽しみなど、住みつきたく なる魅力にあふれていました。

私たち家族が暮らしていたのは、ピヒライストンティエという郊外の住宅街でした。研究所まで歩いて15分くらいのところにあり、まわりに はスーパーや保育園と豊かな自然がありました。また、英語教育が行き届いており、どこに行っても英語が通じたのは特筆すべきことでした。


Professor Irma
写真1.Irma Thesleff 教授。ラボの廊下で新潟大学歯学部の大島勇人先生の撮影
■2.歯の発生生物学と テスレフ教授

歯は、堅くて骨のような組織ですが、発生生物学的には、毛、羽根などと同様、皮膚の付属器官であり、初期の発生段階 では区別がつかないほ ど似ています。また、肢芽(手足のもと)や昆虫の原基(幼虫の時期に作られる手足のもと)などの発生とも共通点があります。しかし、でき あがってくる「かたち」はずいぶん異なりますし、その機能や性質にも大きな違いがあります。こうした点を遺伝子レベ ルで明らかにしていく ことが我々の目的のひとつです。

イルマ・テスレフ教授(写真1)は、旧姓をザクセンといい、シュペーマンの流れを汲む 著名な発生生物学者ラウリ・ザクセン Rauli Saxen の姪にあたります。ラウリ・ザクセンは腎臓の器官培養を開発し、分子生物学的な 解析研究の道を開いた研究者でした。彼女は、この叔父のもとで器官培養を学び、1980年代に歯胚の上皮と間葉を分離して培養する技術 を確立し、さまざまな遺伝子の誘導関係を明らかにしました。また、近年では歯の発生過程における多 くの遺伝子の発現パターンをグラフィカ ルにまとめ、データベースとしてウェブで公開してこの分野に多大な貢献をしています。これまで2度の来日をしており、今年の9月には3度 目の来日を予定しています(吹田キャンパスで開かれる第42回歯科基礎医学会にて講演を予定してお ります)。テスレフ教授は、毎日、精力 的に働いていますが、家庭に帰れば3人の子ども達の母親でもあります。人間的に魅力があり、研究室のメンバーからも敬愛されていました。


BioCenter at Vikki
写真2.生 物工学研究所。1997年夏の撮影。フィンランド 建築の新しい名所でもあるらしく、建築関係の見学者も多い。昨年、円形の建物 (図書館)も左手前にできた。
■3.ヘルシンキ大学・ 生物工学研究所

生物工学研究所 Institute of Biotechnology (写真2)は へルシンキ市郊外のヴイッキ Viikki 地区にあります。この研究所は発生生物学、神経生物学、糖鎖生物学、植物の分子生物学、コウボの分子生物学、酪酸バクテリア、ウィルス学などの研究部門と それをサポートする共通の支援部門(電顕、DNA合成、化学分析など)があります。す べてのスタッフは、契約制で数年おきに査定を受けま す。実はフィンランドでは普通、終身雇用制ですが、研究の活性の低下を抑えるため、この研究所では契約制度を取り入れたのだそうです。そ して、ヨーロッパでも屈指のレベルを維持してきたのです。テスレフ教授も、歯学部臨床 講座の教授という終身雇用の座を捨てて、この研究所 に移ってきたひとりです。

フィンランドでは、教授(または講師)一人、技官一人、大学院生一人を基本のユニツト とし、給料と研究費が支給されるようです。そして、 それ以外の人員は教授のとってきた研究費で雇います。助教授や助手がいないこと、優秀な技官がいること、大学の授業料はただであり、すべ ての学生や院生が奨学金をもらっていることなどに、日本との大きな違いを感じました。 テスレフ教授は、大きな研究費をコンスタントにとっ ており、2人の常勤技官、3人の非常勤技官、1人のポストドク、10人近い大学院生からなるグループを率いていました。また、1996年 の留学時に学内ネットワークがいち早く充実しており、研究室では顕微鏡写真の殆どすべ てをデジタル写真で撮り、これをPC上で論文にする ところまでシステムが出来ていたこと、ネットワーク専門の技官が各フロアにいたことなどは、私にとって驚きでした。

大学の付属施設については、感心したことが3つありました。まず、図書館が市民に開放 されており、ネット接続しているPCをたくさん置い てあったことです。また、学内の食堂(カフェテリア)が500円ぐらいで、おいしいランチを提供していました。そして、今回の再訪で宿泊 したゲストハウスが、市内の中心地に近いところにありながら閑静な場所にあり、調度品 やサウナがすばらしかったことです。大学の使命や役 割、学生への支援のあり方、来訪者のもてなしのあり方などを考えるよい機会ともなりました。


on
                                          ice at Eira
写 真3.凍結した海の上を家族で散歩。気温はマイナス10度 ぐらいだが、天気の良い日でとても気持ちがよい。白い雪の下 には分厚い氷があ り、海が透けて見える。後ろにヘルシンキの街が見える。
Aurora at Levi
写 真4.レヴィで見たオーロラ。北の方に現れる。気温はマイ ナス20度を下回っていた。活発に動き、風でたなびくカーテ ンのようだった。
■4.フィ ンランドの四 季

春は5月1日の Vappu の祭りから。夏は6月22日ごろの夏至祭がピーク。ゆるやかに秋になり、11月ごろから冬の到来です。年中、湿度が低く、暑くても寒くても快適でした。汗 をかいてもすぐに乾きますし、サウナのあとも髪がすぐに乾きました。コンサートな どでの弦楽器やオルガンの音もよく響いていたように思い ます。研究室の中では、例えばディープフリーザーを開けっ放しで作業をしていても霜がつかない、組織切片試料が乾くのも早い、有機溶媒な どが揮発しやすくドラフトでの作業が欠かせない、など室内にいながら、気候の違い を感じることがよくありました。

夏は短いのですが、白夜(太陽がなかなか沈まない)のため、毎日はむしろ長く感じ ました。例えば、朝3時ごろから鳥が鳴き始め、夜は11 時頃まで電灯なしで本が読めるのです。寝不足になりがちなので、夏のカーテンは光を通さない厚めのものが使われます。しかし、本当にフイ ンランドの夏はすばらしい。フインランドは別名「森と湖の国」といいますが、まさ に緑の美しさ、湖沼の美しさは絶品でした。

冬は冬で楽しみました。白夜の反対で1日の日照時間はわずかに 3-4時間。それで冬のカーテンは少しでも光を通す薄手のものが使われます。雪は降っても1日に 3-5cm程度。さらさらのパウダースノーです。気温はマイナス5度から10度の 日が続きますが、室内はTシャツ一枚で過ごせるほど快適でした。湖沼や川 はもちろんのこと、海も凍結し、その上に雪が降り積もりますから、広い地面ができたような感じになります。そして、みんながその上で散歩 やスキー、釣りなどを楽しみます。凍った海の上の散歩はとても不思議な感じでした (写真3)。クリスマスの頃と2月のスキーブレークに は、フインランドの北極圏の街を訪ねました。最初は、ロヴァニエミでサンタクロース村やラップの博物館を楽しみました。2度目のときは、 レヴィでロッジ風のホテルを借りオーロラ(写真4)やクロスカントリースキーなど を楽しみました。

日本と比べ、フインランドは小さな国です。しかし、豊かな自然が人々の生活の中に 残り、豊かな文化と人のやさしさがありました。世界でも トップの携帯電話普及率やインターネット普及率を誇る点では、ハイテク技術の生活への浸透もまた目を見張るものがありました。そして、そ うしたものを反映するように大学自体もまた機能的であり、開放的でありました。イ ルマ・テスレフ教授からもそうですが、私は本当に多くの ものを学び、帰ってくることができたのを婿しく思います。

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