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私の広大時代



私は九大・理学部・生物学科を卒業した後、広大・総合科学 部の細胞・発生生物学講座で大学院生活を始めました。天野實先生と河原明先生のもとで修士・博士の6年間を過ごしました。九大時 代とは異なる環境でのびのびと勉強できたかけがえのない日々でした。

*以下、「天野先 生・渡邊先生・河原先生退官記念文集」(2013年8月) から転載。脚注と関連画像は追加。

■1.東千 田 キャンパス*1

森戸道路が真ん 中を走っていました。そこを歩くと右に教育学部と図書館、左に総科がありました。行き当たりまで 歩くと理学部で、そこか ら右に曲がると法文学部がありました。森戸道路には背の高いメタセコイアが並んでいました。まっすぐに伸びる幹、新緑の美し さは忘れられ ません。教育学部の周囲には、ユリノキが植わっていて、5月になると綺麗な花が咲きました。法文学部の方にはセイヨウイ タヤカエ デがあっ て、秋は紅葉が楽しめました。このほか、ユーカリ、カリン、オリーブ、月桂樹などなど、たくさんの木があって、時々、それらを見て回るの も私の隠れた楽しみでした。

森戸道路総 科は*2 「コ」の字のようになっていて、(コの字の)一画目の左端に生物図書室があり、天野 研、重中研、渡邉研、小林研と続いていまし た。この入り口のところには、ひさしがありましたが、2階にあがる踊り場からこのひさしの上に出ることができ、ヘマトキシリン熟 成をここ でやっていたのを思い出します。また、中核派がこの扉をロックアウトした時、生城(武森研)たちと一緒に中核派と対峙したのを思い出しま す。3階にあがると、生化学系の教室がありました。内山研、上領研、武森研、豊島研、 嶋本研などの不夜城がずらり。屋上まであが るとペン トハウスがあって、セミナー室になっていました。まわりに遠慮せず、エキサイトできる場所でした。天野研の階下は半地下になっていて、講 義室とカエルの飼育室がありました。天野研のアフリカツメガエルと白根先生のトノサマ ガエル、ダルマガエルたちが飼われていまし た。

コの字から少しはみ出るように廊下がでていて、その先にプレハブの細胞培養室がありま した。インキュベータとクリーンベンチが あって、 そこで私は実験をしていました。内山研の大黒さんや狭間さんにいろいろなことを教わりました。離れのプレハブ棟には、生理系の教室があ り、宗岡先生や安藤先生が居られました。

天野研は狭い狭い部屋でしたが、居心地の良さがありました。いつも誰かが居て、話をし たりしながら実験をしていました。夜、誰も いなく なった部屋も、案外、居心地が良くて、ぼんやりとしていることもありました。

*1 現在の広大 は医学部を除いてすべてが東広島市に統合移 転されていますが、以前は広島市東千田にキャンパスがあったのです。私は 1985-92年にこの東千田キャンパスで過ごしました。統合移転前で改修などの予算がつかず、狭いところでした。
*2 総科とは、総合科学部の略称です。総合科学部の中ではこの略称が普通でし た。



■2.天野研

大学院受験のために天野研を訪ねた時のことです。小原佐和子さんが卒 論生として配属されていました。天野先生の話を聞いたあと、 紹介さ れました。親切に対応してくれて、過去問なども用意してくれたので す。びっくりしました。九大理学部だと大学院受験といっても、浪人し て いる方もいたりして、狭き門でもありますから、おたがいに蹴落としあっても助け合うことなどありません。だのに、小原さんも進学 するつも りだと言います。二度びっくりです。

でも、これが総科や天野研の空気でした。そして、私もその天野研に入 れてもらえることになったのです。


■3.河原明先生

河原先生は九大理学部の発生研*3の先 輩で もありました。年齢は12歳はなれていました(互いに丑年)。あるとき、電気泳動をすることにな りました。「あ、いいプロトコルを 持っています」と言って、九大時代 に習ったプロトコルでやろうとした ら、それを見た河原先生がすかさ ず、「あー、それは古い。こっちの プロトコルを使いなさい。そっちの はワシが居たときに作った古いプロ トコルじゃ。」

がーん。九大時代に習ったプロトコ ルは河原先生が院生の時に作ったも のだったのか。しかも、それが今ま で全然手直しされてなく て、みん な最良だと信じていたし、僕もそう 思っていた。でも、河原先生自身は 改良をしていた。うーん、すごい。 研究の質は、大学じゃないんだ。研 究者によるんだ。がつんと頭を叩か れたような経験でした。

それからの私は、プロトコルの書き 方、バッファの計算、実験の組み立 て方、結果の考察など、研究の基本 から始まって多くのことを 河原先生 から学びました。基本は大事です。それがしっかりしていないと、込み入った実験や長丁場の実験、新しい技術の習得はむずかしいからです。

河原先生は、小さなプレ実験をよく されていました。手技上の問題を解 決するためや実験条件を決めるため の実験で、これらの切り分 け方が見 事でした。また、学会発表などで質問をあまりされませんが、実際にはどういう難しさがあって、それをどのように解決または回避しているか をあたかも見てきたかのように話し てくれたことがありました。質問を しても能力的に答えられないだろ う、と鋭く見切る時もあっ て、実験経 験に裏付けられた洞察力だったと思います。加えて、相手を困らせることが質問ではない、というポリシーもお持ちでした。

今、自分が学生や院生を指導してい る時に、突然フラッシュバックのよ うに河原先生の言葉や交わした会話 が思い出されることがあり ます。今 の自分があるのは、先生のおかげだなぁ、と実感できる瞬間です。

*3 私は山名清隆先生、河原明先生はその前の川上泉先 生時 代の方なので、世代は異なりました。

天野實先生
■4. 天野實先生

学会などに行くと、みんなで行 動しました。先生主導で、観光 と飲み会が必ずありました。他 の大学の学生や先生方と合流す ることも ありま した。いつも楽しい会でした。いつの間にか、それが当たり前だと思っていましたが、あるとき、他大学の友人から「雰囲気がいいよね。楽し そうだよね。うらやましいよ」 と言われました。

初めてお会いしたときから、 ずっと、いつでも、先生は快活 で、まっすぐで、芯が強くて、 雄弁。話をするときにはまっす ぐに向かい 合っ て、目を見て話します。込み入った話でもこんこんと話をされます。時にはトーンを落として、ゆっくりと。時には大きな声で、はっきりと。

天野研の中で先生のスペースは 小さな机と椅子だけでした。あ とはすべて実験スペースになっ ていました。だから、僕らが実 験をして いる横 で、他の先生方と話をされることもしばしば。立腹されたり、困惑されたりするところを目の当たりにすることもしばしば。それが天野研でし た。それが天野先生でした。


■5.学部長事件*4
 
学部長事件の日(1987年7 月21日)、私はいつものよう に夜遅くまで大学に居り、帰る 時は学部長室の前を通って正面 玄関に 回ったの ですが、廊下の電灯が完全に消えていて、変だなぁと思いました。10段ほどの下り階段があって危ないため、電灯を消す習慣が無い場所なの です。しかし、スイッチパネル のところまで暗闇を歩くのは、 階段から落ちる危険もあるの で、暗いまま壁に手をあてがう ようにし て、階段を 下りて帰りました。このとき、電気をつけていたら、何か気づいたかもしれない、何かが変わっていたかもしれないと思うことがあります。次 の日からの混乱は知るよしもあ りませんでした。

朝、テレビ・ニュースで事件を 知りました。大学へすぐに駆けつけました。正面玄関は封鎖さ れていましたが、渡邉先生が居 られて、 入れて くださいました。この日から、連日のように警察とマスコミが大学の中を探るように歩き回るようになりました。副学部長だった天野先生が対 応に追われました。マスコミた ちは傍若無人です。天野先生は 自宅に帰ることもできません。 事件から数日経って教室に来ら れた天野 先生は 「腹が減った。河原君、サンドイッチを買ってきてくれ」と言われました。心身共にくたびれている様子でした。

後日、総科の学生・院生を集め ての説明会がありました。天野 先生が現在の状況を説明され、 「真相解明のために警察にも協 力して欲 しい。 みんなで総科を支えてほしい」と言って、頭を下げられました。これに対して、中核派が声をあげました。「犯人扱いをされて困っている。大 学は何をしているのか。」

いつもの天野先生ならば、ここ で諄々と説かれると思いました が、言い返しませんでした。あ る意味、中核派の抗議も正当で はありま した が、こんな時にそうした権利を主張するのは身勝手というか甘さを感じました。彼は非難の言葉を続け、「だいたい、犯人は原理研に決まって いる。何で彼らを調べないん だ」とまで言いました。原理研 のメンバーたちも来ていました から、一瞬、緊張が走りまし た。

さすがにこれは言い過ぎだと思 い、発言を求めました。「今、 君は原理研を犯人だと言ったけ れど、確たる証拠があるのです か?もし もあるな らば、教えてください。」・・・反論ありません。「たった今、警察が自分たちを犯人扱いするといって非難したけれど、同じことをやってい ませんか?おかしくないです か?」「そうだ、そうだ」とす かさず美輝さんや津田君たちの 声がしました。「人が一人死ん だんです。 仕方がな いじゃないですか。僕だって警察の取り調べを受けましたよ。みんな順番に協力しています。仕方がないじゃないですか」。

自 分なりに気持ちを制しながら発 言しました が、気持ちが高ぶっていたのだと思います。終わってから津田君が声をかけてくれましたが、 「本当は君らが言わなきゃいけ ないんだよ」と毒づいてしまい ました。津田君、ごめんなさ い。まだ、私自身が広大の人間 になりきっていなく て、まだ客分のような気持ちがあったのです。未熟でした。

霞キャンパス・原医研の大鷹先 生が「陣中見舞いです」といっ て花束を持ってこられたことが ありました。小柄な先生が大き な花束を しょっ てやってきたような感じで、少しユーモラスでしたが、花を持ったまま、すっくと立ったまま、天野先生をお待ちになりました。そのお姿は今 でも忘れられません。天野先生 にはたくさんの味方がいまし た。日本のあちこちの方が、テ レビを見ていて先生の疲弊を読 んで、気を もんでお られました。事務の方々も必死で対応されていました。長い長い夏でした。

*4  1987年7月21日深夜、 岡本哲彦学部長が、学部長 室にて刃物で刺されて殺されるという前代未聞の事件でした(広島大学学部長殺人事件)。天野先生は学部長補佐をされていましたので、 事件 後は学部長代理 として、学内だけでなく、学外(警察、マスコミ、文部省(当時))への対応に忙殺されました。犯人は教員のひとりで、人事を めぐる怨恨だったとのことでし た。やりきれない結末でした。


天野研で■6. 学生だけの研究室
 
渡邉先生が1989年春から米 国へ、河原先生が1989年秋 から英国へ、それぞれ一年間の 留学。天野先生は学部長になら れ、なか なかお 会いできなくなってしまいました。1989年の天野研は私(D2)、高田さん(D1・前期まで)、河村君(M2)、高倉君(M1)、上野 君(B4)で、渡邉研の大宅さ ん(M2)は遺伝研の嶋本先生 の預かりとなり、天野研の学生 ばかりとなりました。それで も、みん な、朝来て 実験や研究を始めます。抄読会も続けました。昼と夕方は生協で一緒に食事をします。

今、考えると不思議なぐらい、 僕らはまじめだったなぁ、と思 います。たくさんのことをすで に天野先生、渡邉先生、河原先 生からも らって いて、その蓄えがあればこそだったとは思いますが、天野研の一員であることをみんなが誇りに思っていたこと、先生の信頼に応えたいという 気持ちなどがあればこそだった と思います。

ある朝、大宅さんが突然、現れ ました。遺伝研で何かあったの でしょうけれど、明るくふるま い、僕らと普通の話をして過ご しまし た。そし て、生協で昼食を一緒に食べたあと、「なんかすっきりしました。今から戻ります。」と言って広島駅へ向かいました。えらいなぁ、大宅さ ん。強いなぁ、大宅さん。で も、ちょっと切ない出来事でし た。


■7. 天野先生の最終講義

天野先生の最終講 義1992 年3月 に大学院を何とか卒業し、渡邉先生のお口添えもあって、阪大歯学部に助手として就職しました。それから1年後の3 月、天 野先生のご退官でした。

最終講義の前日に広島入りしま した。もう、西条への移転の直 前で、天野研は河原先生と原田 くんたちが梱包作業に忙しくし ていまし た。僕 のできることをしようと思い、生物の事務室を訪ね、講義室を確認しました。そしてプロジェクターの準備や、縦長看板のような題字作りをし ました。標題は「私の履歴書− 若人へ告ぐ」だったと思いま す。大きな字を印字するのに、 生物事務室にあったラベルプリ ンターを使 いまし た。テープを何本も使わせてもらいましたが、それでも足りなくて、大学前の文具屋で買ってきて完成させました。

講義室は、移転を控えていたこ ともあって、手入れがされてな くて、もうぼろぼろでした。先 生の最終講義をこんなところで やるん だ、と思 うと泣きそうになりました。一番の問題は遮光カーテンでした。縦筋の破れがいくつもありました。暑い夏などに風をいれるために裂いたのか もしれません。見栄えも悪い上 に、遮光の役に立たない。

事務の竹田さん、横山さんに相 談したら、どの部屋からでも調 達してきていい、もう移転する のだから、とのこと。それで、 総科中の 講義室 を回って、まともなカーテンを集めました。ひとりで脚立をかけて、カーテンの掛け替えをしました。何にせよ、どこに何があるのか、誰に頼 めばいいのか、わかっている人 間―つまりは「僕」―の仕事だ よ。これは。いろんなことが あったなぁ、楽しかったなぁ、 総科のよき 時代、よ き人々の中に僕はいたんだなぁ、としみじみと思いました。

最終講義はたくさんの方が来ら れました。天野先生の声が総科 の講義室に響きました。ぼろぼ ろの校舎ではありましたが、講演はス ムーズに終わりました。先生は終始、笑顔でした。東千田キャンパスの総科の建物にとっても、これが最終講義だったと思います。よき一日が終わりま した。


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