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私の九大時代



1981年4月、九大・理学部・生物学科に入学し ました。当時の教養課程は教養部(六本松キャンパス)で、専門課程は箱崎キャンパスでした。六本松の時は、田島に下宿し、歩いて通っていました。箱崎の時 は、名島に下宿し、バイクで通っていました。今は、どちらのキャンパスもありませんが、福岡・博多の街 の中で学生生活を過ごせたことはよかったと思います。同じ福岡県でも小倉と福岡は、言葉も風土も気質もちがったからです。そして、伝統の祭りや神社仏閣の 中に町があるような感覚や、県庁のある町の雰囲気や公共施設を知ることができたからです。

勉強以外のたくさんのことに夢中になれた学生生活でした。そして、自分の進む道を決めることができた学生生活でした。

■1.植物観察

学生版 牧野日本植物図鑑高校時代は生物部で明け暮れたので、大学時代はちがうこと をしようと考えました。それで、最初に始めたのが、毎日、目にする植物の名前を調べて、 覚えること。

それで、教養部の先生方による「植物観察会」のサークルに参加するようになりました。1-2ヶ月に一度、決まった場所に集合して、そこから山野 を歩いて自然観察を行うというものです。最初は、恐る恐るの参加でしたが、すぐに常連になりました。勧められた「学生版 牧野日本植物図鑑」は必携する日々となり、あちこちに教わったことを 書き込み、クリップや押し葉を挟んでいきました。例えば、草であれば、葉・花・分枝の特徴などを見ますし、樹木であれば樹形や樹皮の特徴を見る。 だんだんと見方がわかってくると面白い。季節の変化も植物で知ることができるようになる。

それから、先生方は皆、学生を対等に 扱ってくださることにちょっとびっくり。いずれも、いつもは教養部の動植物学の講義や実習などを担当してくださっている先生なのですが、全然、偉 ぶっていなくて、普通に教えてくださる。植物の見分け方や季節による違いなどを教えてくださるのですが、「植物、面白いよね」、という気持ちが伝 わってくる。これは、今、思うと、自分の学生への接し方の基本になっていると思います。

植物観察会では、時々、元高校の先生が参加されました。例 えば、古処山(こしょざん)や背振山(せぶりやま)などで長年、植物の研究・観察をされている先生でした。ご高齢でしたが、僕ら以上に足腰が丈夫で、てい ねいに指導やガイドをしてくださいました。そして、決して偉ぶらない。教養部の先生方も、いろんなことを教えていただいて楽しんで いる。珍しい植物などを見つけるとみんながやってきて、声をあげる。先生の説明に耳を傾ける。こういう雰囲気に入れていただいていたことが、今の自分の在 り方を作ってくれたと思います。


■2.プログラミング

これからの世の中はコンピュータだ、と漠然と思っていたので、教養部では情報処理学概論Tと情報処 理学概論Uのふたつをとりました。どちらも同じ先生が担当されていて、同じ内容なのですが、片方は Pascal、もう片方は Fortran を使うというものでした。だから、「片方だけでよいのですよ」と先生に言われたのですが、欲張って、両方とりました。どちらも人気の科目で、 くじ引きが あったのですが、運も味方してくれて、両方、取ることができました。

それで、Pascal, Fortran, ついでに Basic も習うことができ、これが私のプログラミングのこと
Sharp PC-1251
Sharp PC-1251
はじめでした。その後は、「遊び」としてプログラミングを楽しんでいたのですが、学年が上 がり、専門の 実習で複雑な統計処理が必 要になりました。手計 算は到底無 理 だと考えて、ポケコン(Sharp PC1251) の S-BASIC でプログラムを作ったところ、たちどころに計算ができ、しかも正確であったことから、指導補助の大学院の先輩たちにすごく びっくりされ、感心されました。

私自身は、計算の確認のために、その複雑な計算を先輩方が手計算されるのを目の当たりにして、もっとびっくりしたのですが・・・

何にせよ、エクセルもワードも無かった時代ですから、ちょっとしたプログラムだって、ものすごく役に立ったのです。この 時、 初めてプログラムが研究や仕事に役立つと実感でき、それからは、必要に応じて自分のため、周囲のためにいろいろなプログラム(=ソフト)を作るようになり ました。これが、現在の休八ソフトウェアの始まりです。


■3.バイク

大学1年の6月ごろから、自動車免許取得のために教習所に通いはじめました。8月頃、免許をとれたのですが、原付の免許もついてくるので、小学校 からの友人が原付バイクを貸してくれました。当人は中型バイク(排気量 250-400cc のバイク)に乗るようになっていたからです。最初の冒険は、ホンダ・カブに乗って、実家の小倉から、下宿のある福岡の田島までの4-5時間のツーリング。

これが楽しかったのと、意外とバイクは安全な乗り物だとわかり、バイクの免許を取ることにしました。バイトも始めていたので、ローンを組めば、バ イクを買えると思ったからです。バイクの免許は、小型、中型、限定解除と分かれていたのですが、教習所で取ることができる中型を取得。ホンダ XL250R パリ・ダカール・モデルというオフロードバイクを購入し て、本格的なバイク生活が始まりました。

この時期、ホンダ CB650 ラグジュアリ・カスタム という美 しいバイクに出会いました。乗りたい、と思いましたが、650cc のバイクでしたから「限定解除」が必要でした。というのも、当時のバイク免許は、排気量400cc までという「限定免許」であり、650cc や 750cc (いわゆるナナハン) に乗りたければ、限定解除という超難関の試験に通る必要があったのです。

当時は、限定解除のための教習所は何処にもありません。試験所で検定を受けるだけなのですが、乗ったことのない人間が突然、750cc のバイクに乗って、コースを安全に走り、かつ、坂道発進、スラローム、一本橋などをきちんとこなすなど不可能です。それで、ホンダ直轄のレインボースクー ル・香椎 で体験試乗講習を受け、750ccのバイクにも試乗し、安全に走る・曲がる・止まる技術を教わりました。講師の先生方は、 いずれもホンダのテストライダーの方々で、これがまた実に見事な運転をされる。そして、僕らにも普通に接してくれて、親切かつていねい、それでい て要時は締める、という指導。2回、受けに行って、バイクの面白さや楽しさが増幅しました。

それから、検定試験を受けに行きました。その日のコースは、その日の朝、掲示されるので、まずこれを覚える。最初のうちは、コースを 覚えるだけでも大変です。走りながら、次、どこで曲がるか、止まるか、をわかっていないと操作が遅れてすぐに「検定中止」になります。何度かいくと慣れて きて、6回 目でやっと通りまし た。大体、平均で10回と言われていたので、早いほうでした。

こうして、ホンダ CB650 ラグジュアリ・カスタム も購入して2台もちとなりました。その日の気分や目的で、オン・オフの2台を使い分ける日々を過ごしました。バイト代はバイクのローンと保険とメンテナン スにほとんど費やしました。でも、バイクは走るだけではなくて、メンテナンスの面白さもあり、いろんな人との出会いもあって、楽しい日々でした。


■4.合宿や野外実習研修旅行のしおりなど

九大は九重に合宿所を持っていて、何度か、クラス全員で合宿研修をしました。大学も費用を援助してくれて、教員にも随伴してもらって、バスを借り て、2泊ほどの研修をしました。研修をするときは、大体が僕が代表になって、事務手続きや教員への交渉を行い、当日のイベントなども考えて実施し ました。頼りになる友人達も多く、もともと、生物学科なのでフィールドワークの好きな人間も多く、いつも楽しいイベントになりました。

また、夏休みなどに行われたえびの高原(霧島)での生態学実習も楽しい実習でした。連日、雨が続くハードな時もありましたが、全員で行った大浪の 池・南斜面での20mコードラートを 使った植生調査や、カラ混群の追跡調査などは忘れられない思い出です。

天草にも臨海実験所があり、ここでの臨海実習も楽しい思い出です。みな、鉄道や、クルマや、バイクで現地集合し、併設されている宿泊施設で泊まり こんで連日連夜で実習メニューをこなしていきます。高校時代に写真をやっていたので、暗室作業班になり、あまり、外作業ができなかったのは、少し 残念でしたが、初めて、トビウオが飛ぶところを見ることができたり、和船のこぎ方を覚えたりもしました。


■5.研究室J.B.
      Gurdon, (山名・塩川訳) 「発生における遺伝子調節」

4年生になると卒業研究をするため、研究室に配属されます。ある程度は自由に選ぶことができ、私は山名清隆先生の「発生生物学講座」に配属され、 A6細胞を使った研究をするようになりました。直接の実験指導をしてくださったのは野村一也先生で、初めて、無菌操作や細胞培養の方法を習い、ト リチ ウムを使ったトレース実験を行いました。そこで、自分の勉強不足に気づかされました。僕はギターやバイクやコンピューターに夢中で、勉強はなおざ りにしていたのです。それで、まず山名先生の本「発生における遺伝子調節」 (J.B.Gardon 著、山名清隆・塩川光一郎共訳)で勉強を開始しました。わからないことがあると山名先生に聞きに行きます。すると、私の無知や不勉強にもかかわらず、「教 えた自分の責任 だね」とか「この本の内容については責任がある」とおっしゃって、ひとつひとつていねいに教えてくださったのです。

また、野Lehninger "Principles of Biochemistry"村先生は Lehninger "Principles of Biochemistry" の輪読指導をしてくださいました。英語力も生化学の知識も低い僕を見かねてのことだったと思います。でも、これが楽しかった。面白かった。生化学 を きちんと 学ぶといろんな生物の動きや機能、それから疾患などもわかるようになる。そして、Lehninger の英語の美しさ。山名先生の書かれた本の日本語もきれいでしたから、学術的な記載の基本はシンプルであること、平易な言葉を上手に使うこと、ロジカルであ ること、などを学びました。

研究室にいた大学院生の先輩達にも強い影響を受けました。いずれも博識でそれでいて気さく。ほとんど研究室で寝泊まりしているような人もいました し、生活と研究が切り離せないような人が普通でした。いろんなことに興味があって、どんな話題でも誰かが、専門家のような知識や意見をさらりと話 してくれる。それまでの同級生たちとの会話では、絶対、あり得なかった高いレベルの知識や会話に興奮した日々でした。


■6.教員採用試験の合格と辞退

自分には、もともと、研究者になりたい気持ちと高校の先生になりたい気持ちのふたつがありました。それが4年生の4月に研究室配属されて、気 持ちが研究に傾きます。でも、6月からの教育実習(母校の小倉高校で受けました)では、教育の面白さや厳しさも経験できて、高校教師になりたいと いう気持ちも膨らみます。それで、4年生の夏休みは、大学院入試と福 岡県の高校教員採用試験(一次試験)の両方を受けました。結果、大学 院入試はダメで、高校教員採用試験(一次試験)に合格。運は教員の道に向いていたようで、このあとの面接試験(2次試験)にも合格して、辞令を待 つばかりとなりました。

でも、秋・冬となり、卒業研究が進んでくると研究が面白くなっていきます。まとめながら、もっとやりたいこと、抜けていたことなどにも気づかされ ます。山名先生、野村先生、先輩達からいろんなことを教わって、「発生」という現象そのものをもっともっと知りたくなっていました。

山名先生には何度も進路のことで相談にのってもらいました。あるとき「高校の教員をやりながら研究もできる。だから、高校教員になってもいいので はないかと思う。」 というようなことを言ったところ、すかさず、山名先生から、「それはね、高校の先生にも研究にも失礼だよ。本当はね、どちらかひとつしかできないよ。どち らも大変 な仕事なんだからね。」と言われました。決して厳しい口 調ではなく、いつものようににこやかな表情で言われたのでした。でも、この一言は大きくて、しばらくたって、「研究をしよう」と気持ちが定まりました。

福岡県の教育委員会の委員長あてに採用辞退を申し出る手紙を書きました。母校にも報告と謝りに行きました。
 
卒業した4月からは院浪人でした。研究生として発生生物学講座に残らせてもらい、大学院入試のために勉強の日々を送るようになりました。8月、広 島 大学総合科学部の大学院進学が決まりました。秋に引っ越して広大時代が始まるのでした。


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