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Last updated 2008/12/15
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日本発生生物学会発足当時
及びDGD創刊とその後の経過
広島大学名誉教授
天野 實
I.日本発生生物学発足当時
1968年に初めて、第一回日本発生生物学会が開催された。私が岡山大学医学部解剖学教室から国立がんセンター研究所細胞生物学研究室に着任してから五年目だった。その前の年に私は発生生物学会の発起人会に出席してほしいという手紙を受取っていたので、都立大学の団先生の部屋へ出かけて行った。とにかく真剣に日本の今までの生物学関係の学会とは違う形で、古い分野別の垣根を取り払い色々な分野の人が一緒になって生物の発生現象、細胞の分化等の問題を考え研究を推進しようとしておられることが皆さんからひしひしと伝わってきた。
私は広島文理科大学の発生学教室を出た後、核酸研究のパイオニアの一人である山口県立医科大学(現在の山口大学医学部)の柴谷篤弘先生の研究室でDNAの半保存生合成の研究をしていた。それが縁でカナダ・モントリオール・マギル大学解剖学教室の
C.P.Leblond 先生の所で Ph.D. の学生になりラジオオートグラフを用いてRNA合成の研究をした。私は1960年に核小体とクロマチンでRNAが同時に合成されており、細胞質へ移行することを
Exp. Cell Research に発表した。帰国後1965年には蛋白質・核酸・酵素と、実験形態学誌(名古屋大学の学会の講演)に「核小体のRNA合成」の総説を書いていた。村松正実先生の論文に少し遅れたけれども純国産の分離核小体の研究結果を1967年に
Exp. Cell Research に発表したのが発生生物学者の目にとまっていたので、私が発起人会の段階で呼ばれたのであろうと思う。これより少し前、私は米田満樹先生が校長をしておられた「生物物理夏の学校」の講師として八ヶ岳の麓に行った時癌細胞の核小体が正常の細胞と比較すると明らかに不規則な形で大きいこととRNA合成の活発な部位であることを話した後で、アフリカツメガエルの核小体が出来ない突然変異体では発生の初期遊泳胚の段階で発育が停止することが発見された話(今では
r-RNAの新たな合成が出来ない事は誰でも良く知っている)をし、核小体が重要な核内構造物であると話した事を覚えている。この様なことから発生学分野の方々が私に注目されたのだろうと思う。
私は日本で大学時代に、核酸の研究は学会の壁、研究室間の高い壁に遮られて不可能だったという苦い経験があり、この新しい学会設立の趣旨に即座に賛同し参画することにした。発会式の時、発生生物学会は今までの動物の発生(ウニ、ヒトデ、カエル、イモリ、ニワトリ)のみを扱うのではなく、生物すべてについての発生現象を扱う研究者が一堂に会して切磋琢磨する学会にしたいと趣旨説明で強調された。具体的には、動物関係の方々の外にもガン細胞の研究をしている私が準備段階の時から呼ばれたし、細菌の鞭毛形成、植物の成長、分化、器官形成の研究者は必ず一緒に活動することが強調された。植物関係では発足当初からファイトクロームの専門家の古谷雅樹先生が会員であり、会の運営やDGDの内容充実、欧文誌の日本での状況を
Plant and Cell Physiology との比較などで運営委員、編集員とのメンバーとして毎回必ず貴重な意見を述べられたことは今でも強く印象に残っている。
発生生物学会の創立総会はまだ若かった江口吾郎先生が議長を勤められた。新しい皮の袋に新しい酒を入れ、芳醇な酒に作り上げるのだ。とにかく組織は出来たが、とかく年がたつにつれ組織は硬直し老化してしまうということが起こるのが世の常であるから10年毎に反省する事を規約に明記せよとの発言が前田靖男先生ら当時の若い方からあり、万雷の拍手で採択されたと記憶している。私は1953年大学を卒業した後、動物学会、生化学会、細胞化学シンポジウム(現在の細胞生物学会)、がん学会、組織化学会、解剖学会に入会して活動して来た。これらの学会と発生生物学会とを比較してみると、少なくとも発足後十年間位までは明らかに違っていたと思う。一言で言えば、ゆったりとした雰囲気であり、お年寄りの大先生も若い人たちと気楽に話し合える学会というものであった。このことは日本の学会ではなかなか得難いもので、アメリカ社会で長く生活され、良い意味でのリベラリストだった団勝磨先生と大変気さくな団仁子先生のお人柄が強く影響していたと思う。
II.DGD印刷所変更
1998年第31回熊本の大会で江口先生が山田常雄先生の話をされた時にも出たように Embryologia は名古屋で発行されていた。Embryologia
の発刊あるいは、Embryologia が学会誌としてのDGD (Development, Growth and Differentiation)
に引き継がれた経緯等については江口先生が語られるとのことである。DGDは当初、初代編集主幹を勤められた椙山正雄先生を中心に名古屋大学の方々が印刷、製本、配布の業務をしておられた。その頃は財政面での基礎作り、業務の個人的負担の解消が重要課題と考えられた時であった。その後、椙山先生から編集主幹を引き継がれた岡田節人先生が日本中の色々な学術雑誌の印刷屋を比較検討された結果、広島市内で主に広島大学の紀要の印刷をしていた「大学印刷株式会社」を見つけられ細かい項目にわたっての交渉をしておられた。このことは私の全く知らないことだった。
私が1976年3月に広島大学総合科学部へ転勤することが決まった時に「天野はん、儂(ワシ)と一緒に心中してくれ」と言われて驚いたことが今でもはっきり記憶に残っている。何の事かと聞くと、斯く斯く然然DGDの印刷を広島の印刷屋に移したいのだ、原稿持ち込み後の一切の仕事をやってくれとのことだった。学会誌それも欧文誌ともなれば外国人との文書のやりとり、スペルのチェック、校正、特に生物関係の写真のプリントには色々なむつかしい事が起こり得ることは直ちに想像出来るし、困ったなとは思いつつ、岡田先生と一対一で話していると断固断ることも出来ず、誰かがやらねばならない事だから、しばらくの間軌道に乗る迄御手伝いしようと決心した。当時のDGD編集主幹は岡田節人先生がしておられ、送られて来た論文についてのレヴュウアーの意見聴取、採択の決定、団仁子先生の英文校閲までの全べては京都で行われていた。
論文の字数、表、写真等の大きさから推察して一冊分のDGD原稿は、大変貴重な書類で郵送中に万一紛失したら大変だし、配布する期日を出来るだけ早くしなくてはならないこともあって、当時学生だった漆原秀子先生が毎回京都から広島へ新幹線で持って来られた。予定の期日迄に仕上げ配布することは、色々な思わぬ事が起こり非常に困難なことで屡々会員の皆様に迷惑をかけたことと思う。数年間の仕事と思って始めたが何と編集主幹・米田満樹先生、編集幹事・加藤憲一先生になるまで続いてしまった。勿論この間郵送の安全性、きれいなコピー、FAX、E-mail
等々仕事のやりかたは変わってきた。丁度生命科学関係の仕事をしてきたワイフが国立がんセンター研究所の公務員定員削減で退職した後、田舎の広島で専業主婦をしていたのでこれらの仕事の手助けをしてくれたからこそ可能だったと思い感謝している。振り返ってみると大変な苦労だったが、活版印刷からオフセット、コンピュータ制御と印刷技術が進歩した事などの社会勉強も含めて、1976年当時には思いもしなかった体験だった。
III. DGD発行についての諸問題
学会の機関誌としての刊行物に対する文部省からの補助金を受けるためには決められた年間頁数±20%のものを3月末日までに巻の最終号を必ず配布し終えることが必要で、このことを達成するためには色々な作業の段階での不断の努力が必要だった。
英文のチェックを団仁子先生にお願いした後の文章を見るにつけ、つくづく感心したことがある。出来るだけ日本人の英語の文章をいじらないで、正確に意味が伝わるように改めておられた。このことは日本人をよく知り、著者に対する思いやり、やさしい心遣いの賜だと常に嬉しく思ったものだ。
1979年に団仁子先生が急逝されて、さてDGDの英文校閲をどなたに頼もうかと相談したことが思い出される。日本の他の学会が発行している欧文誌の英文チェックでは色々なむつかしい問題が起こっていることは屡々耳にしていたし、困ったなと思っていた時に別の学会で岡田節人先生と一緒に徳島大学の市原明先生に御会い出来た。市原先生の奥様である市原エリザベス先生のことを思いだしDGDの英文校閲をお願いして頂くように何度も何度もお頼みした。実は阪大の微研Journal等の英文校閲で大変お忙しいとのことだったので年間の論文数を決めて、それ以上のことは決してお願いしないという条件で何とか解決出来たと記憶している。DGDの英文校閲は団仁子、市原エリザベス先生というすばらしい先生にめぐまれて、本当に幸運だったと思う。
印刷所から初稿が出来てから著者に校正を二週間以内に返送して下さいとお願いしてもなかなか返ってこないことがある。一冊を作るためには論文の配列順序を考え各号で頁数にあまり差がないように考慮しなければならなかった。しかし最終号は文部省の補助金の事もあり、いつまでも待つわけにはいかない。南米の著者の場合、いつまで待っても返ってこないし、電話で催促したが、届いていないとの返事、とにかく私の責任てとの了承をとり仕事を進めたら、それから三ヶ月位してやっと届いたという事もあった。日本国内では考えられないようなトラブルも起った。細心の注意を払って作り上げても発送後にミスが見つかることがある。次号に
Errata を挿入する時は本当に心苦しかった。
IV.学会の財政基盤の確立
DGDを作り会員全てに配布することは経済的に大変な負担である。何とか安く作れないものか(外国の印刷所に移すことも含めて)、DGD購読会員とCircularのみを受け取る会員とを作れないものかと色々な可能性を運営委員会では何年にもわたって議論してきた。DGD編集委員会は良い雑誌を作ることに専念すればよい。財政的なことは運営委員会の仕事だ、とはいっても両方の委員会の委員を兼ねておられる方も多くて屡々財政的な話題で白熱した議論になったものである。
具体的には、岩波書店から発生生物学関係の本を出し、執筆者への謝礼を少しにして特別会計のDGD基金に入れることも考え実行されたこと記憶している。又特別に寄付を集めて特別会計のDGD基金に組み入れたことも二度はあったように思う。少しでも赤字が出たときの足しにしようと黄色のドイツ語花文字のテレホンカードを作って販売し収益を特別会計に組み入れたこともあった。
V.学会運営の近代化
我々の発生生物学会には会長一名、事務局に幹事長、庶務幹事、会計幹事が各一名任命されているが、各々大変な仕事量であった。会員の出入りの管理から会費納入、Circularの編集、発行等々である。
三菱化成生命研の加藤淑裕先生と山崎君江先生がこれらの仕事をしておられた時に、何とかしなければと真剣に方策を話し合った。たまたま日本学会事務センターが作られ、日本動物学会、日本生化学会が事務の仕事を委託するとの話があり発生生物学会も委託することになったが、細かい点の交渉は非常に大変だったと知らされた。具体的な折衝に当たられた加藤、山崎先生には心から感謝の気持ちを述べておきたい。
次に、DGDを大判にし且つBimothlyにして名実ともに国際的な雑誌にしようとの長い間の懸案を実行する機運が盛り上がって来た。第一の心配は年間の良い原稿が確保出来るだろうか、財政的に可能だろうか、外国の印刷所で安く出来るところはないだろうか等々以前からの問題を議論して決断したことがなつかしく思い出される。雑誌表紙のレイアウトはどうしよう、ドイツファンの私などは昔のドイツ語花文字にすごい愛着があるのだが、今からはやはり……とか、論文一頁目の右上のDGDのカットはどうしようか、表紙の色は黄色でよいか、文章の字体は何にするか、Keywordsは等々大版二段組にするについては大変な作業が行われた。
もう一つの重大な決断は、国際的な雑誌になるためには世界的規模での広告宣伝配布網の確立が必要だということである。早稲田大学安増郁夫先生の時だったと思うが、Academic
Press にやらせたらどうだろうとの話になり実現することになった。会計上の契約はドル建てにした。その後、円ドルの為替相場が急激に変動することなど誰も想像できなかった。筑波大学での大会の時に、安増先生達と当時の公害研究所の所長で学術会議の委員をしておられた江上信雄先生を訪れて文部省からの学術刊行物補助金の増額をお願いした。外国への配布先を持つ学術雑誌への増額は当然考えてくれるものと思っていたが実現しなかった。経済に弱い私などにはよい社会勉強になった。
VI.DGDブラックウェル社への移管
この寄稿のIVでのべた財政基盤の確立はDGDを製作するのに少しでも安くと昔から真剣に考えて来られた江口吾郎先生の筆舌に尽しがたい努力の結果、やっとブラックウェル社へ移すことが可能になったと思っている。学会員の意向をアンケート調査し、編集権まで取られてしまうとの一部会員の持ってた危倶の無いよう、色々な細かい点を交渉し決着まで持ってこられた次第である。
私の多言は無用、1994、Dec. CircularNo.79の江口先生の「退任に当たって」を熟読玩味して頂きたい。歴代の会長、幹事、委員や日本発生生物学会とDGDを立派なものにしたいと思われた多くの方々の努力によって現在のようなものにまで発展して来たと思う。
苦しいことも多かったが反面非常に楽しいこともあり、特にDGD編集とのかかわりで多くのすばらしい先輩、同僚、後輩の方々と知り合いになれた。加藤淑裕先生の時には丸の内の三菱ビルのなかで、会議の後、立派な日本間で関東風がいいとか、いや関西風が一番だとか言いながらおいしいスキ焼きを楽しんだ。金谷晴夫先生の時には菅島の臨海実験所で会議を終えた後、朝まで酒を飲み、翌日は岡田節人先生の真赤なスポーツカー・アルファ・ロメオで山名清隆先生と一緒に伊勢志摩のドライブを楽しんだ事などが思い出される。
日本発生生物学会の会員の皆様、今後ますます研究に精進され、立派な論文をDGDに投稿されるよう祈って筆を置く。
※編集注:このページは、日本発生生物学会の会報誌 Infomation Circular No.
90 (1998年8月号) に掲載された「学会発足当時及びDGD創刊とその後の経過(広島工業大学 天野 實)」を再構成したものです。なお、この Circular
は No.100 まで刊行され、その後、Web になって紙の会報はなくなりました。