© 1996-1997, Kyu-hachi TABATA
ヘルシンキだより #12      1997- 6- 7 記

日本の初夏のようなさわやかな日が続きます。湿気がなく快適です。気温は、14度から20度。たまに30度近くまでゆきます。朝夕も日が長い ためか それほど寒くはありません。私は夏の薄手のズボン、Tシャツの上に薄手の長袖シャツを着て仕事をしています。外を歩く時は、これにサマージャ ンパーをはお ります。

テレビの天気予報では、20度を越すと warm(=暖かい)、25度を越すと hot(=暑い)という表現を使うそうです。


12-1 スポーツあれこれ

日本では冬のスポーツであるサッカーが、こちらでは夏のスポーツ。アイスホッケー場がサッカー場になります。研究所でも David Rice が電子メールで、「さあ夏が来た、今年もサッカーをやるよ」と宣言。毎週1回、サッカーをやっているようです。
道路では、インライン・スケートをやっている子供達をよくみかけます。アイス・スケートと同じく、その巧みな滑りには驚きます。通勤に使って いる大 人もいます。

研究所の入り口付近は、ほどよい斜面になっていて、スケート・ボードが盛んです。ちょっとつっぱった感じの14〜16才ぐらいの子達のたまり 場に なっています。

週に1回ぐらいでしょうか、パラグライダーをやっている人たちがいます。ふわりふわりと Malmi あたりの空をおりて来ます。先日は気球も飛来しました。

バルト海は、ヨットやモーターボートが盛んです。川や湖沼では、カヌーやボートが盛んです。釣りを楽しむ人も多いのですが、これは年中を通し てのこ とです。

12-2 運動会(6月1日)

日本語補習校の運動会がありました。日本クラブ共催です。また、日本企業の商工会がたくさんの賞品を用意してくれました。ヘルシンキ在住の日 本人に とっては楽しみにしているイベントのようです。そして私にとっては、運営委員としての初仕事(運動会実行委員を鈴木清子さんと二人で担当)と いう大きなイ ベントでした。

場所はピルッコラ運動場。森の中にあるすばらしい運動公園の施設のひとつです。この日はすばらしい晴天でした。例年、行っていたバザーを諸事 情から とりやめたのですが、これが良い方に目がでました。父兄の負担が軽くなり、係の仕事や、競技参加、子供達の応援など、万事に楽しめたからで す。ケガをする 子もなく、すべての競技が滞りなく行われました。なによりも私自身が楽しめた運動会でした。

子供は12競技ほとんどすべてに出づっぱり。大人も楽しめる競技をたくさん用意しました。評判のよかった競技は、綱引きとパン食い競走、二人 三脚で した。新競技のスプーンリレーも上々。最後の800m競走は、成人男性のほとんどが参加して賑わいました。私も参加したのですが、なんと1位 でゴール。高 校を卒業して以来の全力疾走でした。綾子も随分楽しかった様で、帰ってからも運動会の話で持ちきりでした。

12-3 夏休み

日本語補習校は、運動会以降、夏休みになります。これは、フィンランドでの習慣(6月初旬〜8月中旬が夏休み)に従ったものです。大人もこの 間、 2〜4週間の休みをとるそうです。また、職場によっては4時終業なのをさらに1時間早くしたりして、短い夏をゆっくりと楽しめるように配慮す るようです。

街のカフェやバーは、店の外にテーブルと椅子を用意します。人々は、そこにすわり、何時間も歓談しながら、夏の日差しを楽しみ、ビールを楽し みま す。通りは人々の賑やかな声とおいしい匂いにあふれます。

12-4 リガ訪問 (6月4〜6日)

総勢130余名、所長を筆頭に研究所員のほぼ全員参加の旅行がありました。目的は、リガ(ラトビアの首都で、バルト3国最大の都市)にあるラ トビア 大学バイオメディカルセンター Biomedical research and study center of Latovian University 訪問とそこでの合同シンポジウム開催です。

1日目: 朝6時45分に集合し、8時出港のタリンク・フェリーに搭乗。4時間かけてエストニアのタリン港到着。そこから、バス3台に分乗してパルヌを 経て、ラトビ アへ。しかし、タリン港のパスポートコントロールで1時間半、エストニア・ラトビア間の国境で4時間の入国まちとなり、予定が大幅に遅れてし まいました。 リガについたのがなんと夜の9時。それから市内を40分ほど観光。ユルマラにあるホテルについたのは、深夜12時でした。
 
天気は素晴らしく、パルヌ海岸での景色や車窓からながめる風景は明るく気持ちの良いもので した。しか し、昼食が昼の4時ごろ、夕食は結局抜きになりました。ホテルはひどく古くて、部屋は寒く、お湯はでない、テレビがない。電話のない部屋もあ りました。イ ンターネットで紹介されていた内容とは随分ちがいます。スパ・ホテルだったはずなのに・・・。同室の David Rice は、「こんなひどい所は初めてだ。ソビエト時代の建物か?」などと珍しく不満をぶつ始末。眠くて、ひもじくて、寒い体をスコッチであたためて 横になりまし た。

2日目: 朝7時に起床。簡単な食事のあと、バイオメディカルセンターへ行き、シンポジウム。双方から5人ずつ演者が出ました。今回は Irma が欠席だったこともあり、大半が他分野の内容でしたが、私にとっては、隣人(=ヘルシンキ大学生物工学研究所の他のラボ)の仕事のことを知る いい機会とな りました。特にガーベラを使った植物発生生物学の Teemu Teeri、細胞間認識における糖の機能解析をしている Ossi Renkonen、HB-GAM レセプターの機能解析を紹介してくれた Heikki Rauvala グループの Sari Lauri の話などは面白い内容でした。
 

この日も予定がずれて、昼食は3時すぎ。ただし、やっとまともな料理にありつけました。このあと、4時半頃からリガの旧市内で自由行動。 Johanna Pispa、Pekka Nieminen らと共にまずドム教会に行きました。しかし、5時をまわっていて世界最大級というパイプオルガンを見る事ができませんでした。そこで今度は 123.25m の尖塔をもつ聖ペテロ教会へ。1ラット(\222)払って地上 72m の展望フロアへ。市内が一望に出来るすばらしい景色でした。
 
6時からオペラ座でバレエ「青きドナウ」。オーケストラもバレエもホールもすばらしいも のでし た。ちなみに料金は 200 FIM (\5,000) で、正面の前から4列めの席でした。プリマドンナ Zane Kolbina が出て来ると喝采がすごく、フラッシュをたく人もいます。マナー違反じゃない? といぶかしく思っていたのですが、彼女にとってこの日が最後 のステージ だったのです。印象的でした。この後、ホテル・リガでバイオメディカルセンターの人たちと晩餐。
 
3日目: 国境でのタイムロスを考慮し、一路、エストニアへ。タリン(エストニアの首都)に4時半ごろ到着し、約2時間の自由行動。トームペア城やアレ クサンダー・ ネブスキー寺院、展望台を散策し、土産物を物色しました。このあとタリン港から水中翼船でヘルシンキ港へ。帰宅出来たのは夜11時でした。

初めてのバルト3国訪問でしたが、まず人々の質素な暮しぶりと住居の古さ、衛生面での不備などに少なからず驚きました。また、バイオメディカ ルセン ターは、リガ第一の研究所にもかかわらず、その内部は狭く、ベンチやドラフトがない環境、ディスポ器具を洗浄して再利用している様子などに胸 がつまる思い でした。しかし、彼らは実に誇らしげに室内を案内してくれましたし、自由な空気が伺えたように思います。1990年の独立以後、所内の人員整 理に着手し、 なんと1/6まで人を減らしたが、Academic Paper の数は変わらなかったという話や、旧ソビエト式の学位制度(数年大学院にいれば博士号授与)をあらため、ドイツ式(審査の上、すぐれた研究を 行ったと認め られた場合に博士号授与)にしたとの話などを所長から聞くことができました。

12-5 Hun-Sung の来フィン (6月6日)

英国の Wolpert (Positional information theory で有名な発生生物学者)のところから、韓国出身のハンスン(鄭翰聖 Jung Hun-Sung)がやって来ました。彼は postdoc として仕事をする予定です。日本で生まれ、何年も日本にいた事があり、日本語が達者です。ニワトリ胚操作、特に体節の交換などの技術、それか ら in situ が出来るそうです。

12-6 日本の夏、北京の夏

ラボには、3種類の恒温室 (4℃, 28℃, 37℃) があり、実験に応じて使い分けています。このうち、37℃の部屋は、温度といい湿度といい、日本の夏を思い出させます。そこで、「日本の夏は どんな感じな の?」と聞かれて、「37℃の部屋へゆけば、体験出来るよ」と答えたところ、北京出身の Juan(孟小娟 Meng Xiaojuan)が大笑い。彼女によると北京の夏も暑いそうで、「37℃の部屋は、北京の夏も体験出来る」そうです。


とびら へ 前へ 次へ
↑ トップへ