© 2012, Tatsuyuki KAMIRYO ネアンデルタール人を推理する

6.出アフリカ


 ネアンデルタール人は、およそ二十万年前にヨーロッパ大陸に現れた、と申しました。しかしそれは、その頃になって突然、彼らがその地に降り立っ たワケではではありません。彼ら一人ひとりにお母さんがいて、そのお母さんたちにもお母さんがいるはずです。そうやって次々に世代を遡ってい け ば、いずれは「二十万年前」という枠をはみ出して、三十万年前、さらには六十万年前にだって達することでしょう。そこまで昔に戻ってみたら、その 大祖母さんたちは、たぶん、ホモ・ネアンデルターレンシスとはみなされないでしょう。この種名の基準にされた、フェルトホーフェル洞窟の一号 化石 の特徴から外れてくるからです。この洞窟の名前が出たので、余談を一つ。平成十一年、最初の発見から百四十三年後(1999)に、この洞窟の跡が 奇跡的に再発見されました。しかも新たに得られた人骨の一片が、なんと、ネアンデルタール一号の膝の関節の、欠けていた部分にピッタリ一致し たの です。そのすぐそばにあった遺骨から、彼の容姿をかなり正しく復元できるようになりました。二号遺骨も見つけられました。

 ところで、遺伝子というモノは、それぞれ一定の速度で変化していきます(例の教科書『人間という生き物』の、第4話の「遺伝と伝言ゲー ム」、そ れから第5話の全体)。この性質を利用して、いくつかの遺伝子について調べますと、三、四万年前のフェルトホーフェル一号と現代人との、共通の先 祖が生きていた時代を推定することができます。その時代を言い換えると、ホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスとが(正確には両者 の遺 伝子が)分岐した時代のことになって、それはまだ確定はされていませんけど、六十万年から四十万年前ということになるそうです。その共通ご先祖さ まの名前については、諸説あるようですけれど、ホモ・ハイデルベルゲンシス(H. hidelbergensis )とよぶことにいたします。この種小名の由来は、フランス東端との国境に近い、ドイツのハイデルベルク市です。その近郊で、この原人の基準となる化石が見 つかったからです。「学問と小説」の項で触れたア ルスアガ(『ネアンデルタール人の首飾り』の著者)などは、これに相当する人類をホモ・アンテセ ソール(H. antecessor )とよびたそうです。

赤沢 ネアンデルタール人の正体 六十万年から四十万年ほど前のアフリカでネアンデルターレンシスとサピエンス(の遺伝子)が分岐 し た、という意味は、その頃にネアンデルターレ ンシス系統の先祖がハイデルベルゲンシスの系統から離れていく、そのきっかけになる(遺伝子の)変化がおこっただろう、ということです。そういう 時期には、まだサピエンス出現の兆しなど何もありません。ネアンデルターレンシスの方だって、ハイデルベルゲンシスの小集団(おそらく二十人 ほ ど。コミュニケーション能力が高い現代人でも、統率のとれる集団の人数はせいぜい百五十人とされています)のどれかに、そういう兆しが芽生えたと いうことです。その「兆し」とは、たとえば大脳がチョッと早く大きくなれるとか、そういう、眼には見えない変化のことです。

 その遺伝子の変化(変異)が、形をとって現れてきたのは、どこでしょうか? 教科書では、アフリカのように書きました(102ページ。この ペー ジの12行目にある「骨」は、「草食獣」と訂正します)。あれは間違いで、どうやらパレスチナ地方を含む西ユーラシアのようです。ネアンデルター ル人の骨の出ると確定された遺跡を調べたところ、アフリカ大陸では、例外的にリビア東部のベンガジ北東の沿岸部(地名不詳)にあるだけだと 知った からです。ここには、いったんアフリカを出たネアンデルタール人のある集団がシナイ半島に戻って、地中海沿いに西進して定住したのでしょう。

 ネアンデルタール人の出自の変更は、赤 澤威編著『ネアンデルタール人の正体』朝日新聞社(平成17年)にあった図からの着想でした。でも実は、 少し心配だったんです。得ていた情報の中には、彼らをアフリカ出身だとする説が、いくつかあったからです。しかし、石 川統ら編『ヒトの進化』岩波 書店(平成18年、シリーズ 進化学の第5巻)の「化石からみた人類の進化」の中で、諏訪さんが、 「ネ アンデルタールの起源はヨーロッパのハイデルベルゲンシスに求められ、・・・」と 書いておられるのを見つけて、安心したことを白状しておきます。

斉藤 ヒトの進化  なお、人類集団がアフリカ大陸を出てシナイ半島を横切り、パレスチナ地方経由でユーラシア大陸以遠に広がっていくことを、よく「出アフリカ」 と いいます。これはユダヤ・キリスト教の経典にある、モーゼがユダヤ人をエジプトから連れ出す、「出エジプト」をもじった表現です。

 かつてはエレクトスの時代に一度だけ、とされていた「出アフリカ」が、サピエンスになってから、もう一度あったという説が有力になりまし た。こ れを「第二次出アフリカ」といいます。本当に、この二回だけでしょうか? 原人を猿人から区別する要点の一つは、脳容量の増大です。脳はエネル ギー消費の高い臓器です。その結果、原人たちはカロリーの多い肉をメニューに入れていきます。広い縄張りの要る肉食に変わった原人が、個体数 を増 やせば、誰かが従来のテリトリーの外へ出ない限り、全員が生き続けることはできません。ライオンなら、虚弱な仔を棄てることで事態を解決します。 エルガスター(アフリカの初期エレクトス)でさえ、何かの理由で動けなくなった仲間を見捨てずに、柔らかい肉を、正確にいえば肉食動物の肝臓 を、 与えていたという化石上の証拠があるのです。彼らより数十万年後に現れたハイデルベルゲンシスなら、ライオンの解決法は採らなかったでしょう。小 集団が「出アフリカ」を繰り返したのだと思います。その中には、ネアンデルタール人に変われる要素(変異)をもった集団もいたはずです。

 そういう集団のメンバーは、日差しの強いアフリカの、暑い気候に適応した体をしていたと思われます。ただし、その体型について諏訪さんは、 「ほ とんどわかっていないが、なかにはきわめて大柄な四肢骨も知られている。したがって、熱帯地域であっても現代人と比べるとかなり頑丈な体をしてい たことが想像できる」と、先ほどの本で書いておられます。後半の一文を加えられたのは、赤道近くのアフリカ東部で見つけられた「トゥルカナ・ ボー イ」の名で知られるエレクトス(エルガスター)の骨格や、現在のケニアからタンザニアにかけての先住民であるマサイの人々の体型から、安易に長身 痩躯とイメージされることを心配なさったからでしょう。

 ところで、仲間に「肉食動物の肝臓」を与えた化石上の証拠、という表現に疑問をもたれた方がおられると思います。肉食動物の肝臓には多量の ビタ ミンAが溜まっているんです。このビタミンはヒトに必要な栄養素ですけど、必要以上に摂った場合には死を招く毒になります。大正元年から二年にか けて南極を探検したオーストラリア隊が、衰弱の激しい仲間に橇犬の肝臓を優先的に食べさせて、結果的には毒を与えるという惨劇を演じていま す。そ ういう場合の死に至る過程では、骨がスカスカになるという症状が現れます。まさにその症状をほぼ全身の骨に出している約百七十万年前のエレクトス 女性の遺骨が見つけられているので、「化石上の証拠」といったのです。


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