© 2012, Tatsuyuki KAMIRYO ネアンデルタール人を推理する

8.多様性と混血論

 今までほとんどネアンデルタール人の姿形について、それはもちろん化石(遺骨)から推定される全身像のことですけれど、これについて何も紹介し ていませんでした。『ケーブ・ベアの一族』に使われた、シャニダール一号のように、はじめから不具がわかる場合なら、それを配慮して復元する こと もできるでしょう。でも、それに気づかずに正常な骨格とみなして復元すれば、ずいぶん歪んだイメージを作り出してしまいます。そのいい例が、フラ ンスのラ・シャペローサン(ラ・シャペル・オ・サンとも書かれる)で見つけられた(1908)、全身像を推定できるほどに各部分の骨がそろっ た最 初のネアンデルタール人化石です。ネアンデル渓谷からの(フェルトホーフェル洞窟が再発見される前の)遺骨は、頭の鉢と両腕、片方にのみ骨盤の一 部がついた二本の大腿骨だけでしたから、全身像の想像がつかなかったのです。

Kupka Neanderthal  ラ・ シャペローサンの遺骨からネアンデルタール人像を作り上げたのは、のちのパリ人類古生物学研究所の所長になったマルセラン・ブール (Marcellin Boule)という人です。彼は学者ですから、その特徴を文章で著して論文に発表しました。ただしその一方で、まだ無名の貧しい画家(今では抽象絵画のパ イオニアの一人として評価される)、フランティシェク・クプカ(Franisek Kupka)に、そのイメージを描かせています。日本の韓国併合(明治43年)の前年(1909)、フランスの挿画雑誌に掲載された復元想像図では、顔面 以外の全身は毛で覆われているようにみえます。まぁ、古いハリウッド映画に出てきそうなサルの化け物です。腕に比べて脚が短く、膝が伸びてい ない から、腰を落とした前かがみの姿勢で、棍棒を握っています。一応立ってはいるけれど、脚だけでならヨタヨタとしか歩けずに、走るときは四つん這い になりそうです。また、前に突き出された頭部は上から押し付けられたように平べったくて、どうみても賢そうではありません。

 毛皮があるように描かせたことは、遺骨に基づかない想像ですからご愛嬌のうちです。しかし膝の曲がった前かがみの姿勢は、大失敗でした。四 十年 余り経ってから立証されたように、この骨の主が四十歳前後の当時としては高齢者であって、背骨や両脚に慢性の関節炎を患っていたからです。ブール がこれに気づかず、クプカに描かせたようなイメージにとびついてしまったのは、それが彼の長年の主張に沿うものだったからです。その主張の根 源 は、ヨーロッパで出土する遺骨の主であるネアンデルタール人は、断じて「我ら、美しく賢いヨーロッパ人」の先祖ではない、という先入観です。

 現生人と比べたときのネアンデルタール人の容姿の特徴は、顔についてなら僕らより前に突き出ていて、鼻がずいぶん大きく、歯も丈夫だ、とい うこ とです。それから、両眼の眉毛の生えている辺りの骨が突き出て、しかも左右がつながっているので、まるで目の上の「ひさし」のようです。ゴリラの 顔もそれに近いですね。だからこれらは、ネアンデルタール人に固有のことばかりではなく、遠い先祖からの遺産を含んでいると考えた方がいいで しょ う。頭が平たくて前後に長く、とりわけ後頭部が後ろに出ています。そのかわり額が狭いから、意思や思考、創造とかに関わる前頭葉は、あまり発達し ていなかったと解釈されています。骨格はきわめて頑丈で、身長は百六十センチくらいの個体でも、体重は八十キロ以上と推定されています。ずん ぐり 型で、腕も脚も短い胴長短脚です。これは寒冷な気候に適応した体型、というのが通説です。

 もちろんネアンデルタール人は、約二十万年という時間と、中東の一部を含む西ユーラシアという広がりの中で生きた人類です。個別の集団を取 り上 げれば、このうちのどれかの特徴が際立っていたり、逆に目立たなかったりという多様性があって当然でしょう。彼らはハイデルベルゲンシスから多様 化(進化)して生き延びた原人です。このハイデルベルゲンシスとは、ミンデル氷期(30〜23万年前)の寒さをどこかでやり過ごした、分類上 のホ モ・ハイデルベルゲンシスです。ハイデルベルク近郊の住人よりも、二十万くらいあとの人たちです。このネアンデルタール人が再びヨーロッパに拡散 したと考えましょう。彼らは間氷期の西ユーラシアに版図を広げながら、いっそうの多様化を進めたのだと思われます。このことは、約二十万年前 を境 にして、前期(下部)旧石器から中期(中部)旧石器へと変わっていく、という事実によって裏付けられています。

 このように新しいタイプの道具、したがって新しい生活様式を携えてヨーロッパに根を下ろしたネアンデルタール人は、人口密度は低い(百平方 キロ あたりせいぜい5人で、1人以下という説もある)ながら、北はデュッセルドルフ近郊の北緯五十二度近く(フェルトホーフェル洞窟)から、南はイス ラエルのカエザリア郊外を通る北緯三十二度くらい(ケバラ洞窟など)までの、広い地域に遺跡を残しています。彼らは、リス氷期(18〜13万 年 前)の寒さを何とか凌ぎました。しかし次のウルム氷期(7〜1.5万年前)では、初めの一万年余りの寒気はやり過ごせたけれど、少し気温が上がっ たあとで襲ってきたいっそう厳しい寒さには耐えきれず、約三万年前にほとんど絶滅したようです。

 ホモ・サピエンス以外の生き物は、環境に彼ら自身の体を合わせて対応します。その対応の仕方はとても奇妙で、たとえばキリンは、より高いと ころ にあるアカシアの葉を食べることのできる個体が生き残ることで、オカピのような先祖動物から脚と首の長い生き物へ多様化(進化)していった、とい われています。でも、どうして水を飲むにも苦労するほど、脚や首が長くなったのでしょうか? また、どうしてあの長さで止まってしまったので しょ うか? 今のキリン以上に背が高くなった個体群は、絶滅したのかもしれません。人口密度が低いということから、ネアンデルタール人の小集団のあい だの交流は少なかった(互いにほぼ孤立していた)と想像できます。寒さに過度に適応した集団は、典型的なネアンデルタール人とみなされるけれ ど、 それゆえに早く絶滅したかもしれません。温暖なはずのパレスチナの遺跡からも、「典型的な」ネアンデルタールが出土しています。その一方この地帯 からは、ネアンデルターレンシスの規格から外れた、「ホモ・サピエンスに似ている」という印象を与える骨も見つかりました。

 この地方は、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」の道筋に当たります。「最初に花を手向けた人々」以来、現生人に近い精神のもち主だと思われ るよ うになってきたネアンデルタール人ですから、ホモ・サピエンスに似ているという印象を与えるネアンデルタール遺骨は、両者の「混血」という発想を 誘います。しかし、サハラから北の現代人にネアンデルタール人特有のゲノム配列が検出された今日でも、混血論が証明されたとはいえません。


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