© 2012, Tatsuyuki KAMIRYO
ネアンデルタール人を推理する
13.ハダカの周辺
冬、池にやってきたカモなんかを観察してご覧なさい。岸に上がっているときはもちろん、池の水に浮かんでいるときにも嘴を背中の後ろのほうに もっていって、それから毛繕いをしています。背中の後方にあるのは、ロウのような油(尾脂)を出す尾脂腺で、この油がついた嘴で全身をこするの が、水鳥の毛繕いです。嘴の届かない首の内側などは、じかに尾脂腺にこすりつけています。もしも水鳥を洗剤の液に入れたら、尾脂が役に立たなく なって溺れてしまうでしょう。哺乳動物の毛包には、アポクリン腺のほかに、脂腺という脂肪分の多い油を分泌する付属器官も口を開いていて、その油 が、毛の表面に水をはじく性質を与えています。だから川を泳ぎ渡ってきたイヌも、大雨にうたれたサルも、ブルッ、ブルッと身震いして水をはじき飛 ばせば、たちまち空気のたまる素敵な毛皮を取り戻せるのです。
ご自分の雨具がまるで役に立たない暴風雨の中でも、サルの群れを観察し続けてこられた島泰三さんは、そんなことを百もご承知です。それで毛皮の ことを、あれは野生動物の「衣類」というだけでは足りなくて、どんな雨でも吹雪でも丸くなってやり過ごすことのできる「家」でもあるのだ、という ふうに述べておられます(『はだかの起源』)。昭和三十三年からの一年間を、南極「昭和基地」周辺のブリザードの中で生き抜いたタロ、ジロを思い 出せば、そのとおりでしょう。そうだからこそ島さんは、一トンを越えるほど巨大でもなく一生を水中で暮らすわけでもなく、これといった自然選択上 の利点もなしに毛皮を失った哺乳動物は、子孫を残すことなく消えていっただろう、とおっしゃいました(「そろそろ体表の話題へ」の項)。そのうえ で、例外的な数種の動物を挙げられて、例外なんだから、いたとしても大所帯の「目」の中に、ただ一種だけいるくらいだ、といわれたのです。
現生の霊長目の種数には諸説あります。日本語版の「Wikipedia」では約二百二十種としていますけれど、英語版に載っていたリストで集計 しますと四百三十七種になりました。ゴリラ属を二種に分け、オランウータン属も二種とするなど、細かく分ける方針をとっているからでしょうか。ち なみに『はだかの起源』には、二百三十三種と書いてあります。分類なんて、所詮こんなモノです。いずれにしても現生しているサルは、二百種を越え て五百種には至らない、ということでしょう。その中でたった一種、ヒト、ホモ・サピエンスだけが、あの大切な毛皮を失って、ハダカなのです。
ヒト以外に島さんが挙げた、「これといった自然選択上の利点もなしに毛皮を失った」現生の野生動物は、コビトカバを含めて四種でした。人工的に 保護されながら生きているハダカ動物については、胸腺も失ったヌード・マウスと、BIDS症候群のエリマキキツネザルの二種を紹介しておられまし た。BIDSといわれても分かりませんね。ユーロ圏の中で、投機筋からの攻撃に弱い南欧四国の頭文字を集めてPIGSとよんだ、あれに似ていま す。残った毛のもろさ、知力の弱さ、繁殖力の低さ、体の短さ、の頭文字がBとIとDとSだったのです。実はもう一つ、無毛犬がおります。今から約 三千七百年前にメキシコのアステカ人が見つけました。それがペルーのインカ人にも伝えられて、メキシカンおよびペルービアン・へアレス・ドッグと して、今も大切にされています。その系統は中国にも伝えられ、交配されたチャイニーズ・クレステッド・ドッグとして愛玩されています。へアレスは 全身が無毛ですけど、クレステッドは耳から首筋にかけてと脚先に毛があります。
この、イヌを無毛にする遺伝子が平成二十年に明らかにされました。その結果、この遺伝子は毛包のほかに、歯の成長にも関係していることが判った のです。マウス、エリマキキツネザル、イヌの例は三者三様ながら、哺乳動物に毛を失わせる変異は、身体の別な機能にも影響するということを教えて くれます。それなら、ヒトの場合でも何かが変わっているかもしれません。ハダカであること以外に、類人猿の中でヒトだけに特徴的なことの一つは、 「のど」のつくりです。ラミダス猿人このかた、四百万年以上も二本足で立って歩いてきたからでしょうか、四つん這いで歩く動物に比べてヒトののど は、特にその下の部分が、ずいぶんと下のほうへ長く伸びてしまいました。チンパンジーとヒトののどの部分を比べた解剖図を並べてみますと、この違 いがはっきりわかります。
これは結構まずいことです。なぜかというと、チンパンジーなら鼻からの空気が、食べ物の通り道に混じることなく、直接、気管に入っていけるの に、ヒトでは空気と食べ物の通路が交わってしまうからです。だからヒトは食べ物を呑み込むことと、呼吸すること(したがって声を出すこと)とを、 同時にはできないのです。大人と一緒に食事をするようになった子供は、モノを食べているときは喋らないように、と躾けられます。気管と食道との線 路の切り替えにしくじると、食べ物を気管に入れてしまって、むせて、食卓が悲惨なことになるからです。もちろん赤ちゃんにはそんな躾けができませ ん。でも大丈夫。おしゃべりをしない乳児の咽頭は、チンパンジーなみの位置にあるそうです。こんなことを知ると、「個体発生は系統発生を繰り返 す」なんて古い学説を思い出します。
たぶんこういう成り行きで、ヒトは、のどから気管にかけての筋肉を、器用に動かす神経が発達したのでしょう。それでチンパンジーよりも、はるか に複雑な声を出せるようになったのだと思われます。ただしヒトのハダカ化と咽頭の変形が、同一の遺伝子の変異で起きた、とは申しませんよ。そうか 否か、まだ誰にもわかっていないはずですから。ただ、マウスとエリマキキツネザルとイヌの例は、そういう可能性もあり得る、という夢を残してくれ ているんだと思います。
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