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■1.クラシックらしからぬ音楽
「展覧会の絵」は、「深みに欠ける」という評価をされることがあります。確かに、ムソルグスキーの音楽は、ドイツやウィーンなどの音楽とは明らかに 異なります。ロマンティックや神への賞賛などとは無縁ですし、ベートーヴェンのように運命を克服したり、人類のすばらしさをたたえるような構成でもありま せん。つまりは、演奏者の人生を重ねるような 深刻さもありません。しかし、この評価こそ、ムソルグスキーの音楽がクラシックの世界に収まりきれない音楽であることを示しているように思います。クラ シックらしからぬゆえに面白いと思うのです。
こうした音楽性は、現代になってさまざまなジャンルにおける編曲を生む要素になっていると思います。
■2.構成の面白さ
「展覧会の絵」はプロムナード6回(「死者の言葉による死者への語りかけ」を含めて)、ハルトマンの絵を現す小曲が10回、都合16曲からなる組曲 です。また、各曲の長さが1分前後から6分程度までと、ごく短く、クラシックの持つ冗長性が無いように思います。
プロムナードは、ムソルグスキー自身の歩く姿を現していると言われています。10枚の絵は各々同士では関係がありませんが、プロムナードによってう まく継ぎ合わされ、終局ではプロムナードの主旋律が「死者の言葉」や「キエフ」の主旋律となって奏でられ、一体感が出ています。これはまるで、絵を見るム ソルグスキーが、ハルトマンの残した絵の中に溶け込んで一体となるようなイメージです。そして、終局までのさまざまな絵が、ムソルグスキーの心象風景と なっており、1枚1枚の絵が聴く者の心を揺さぶります。
ムソルグスキーは、主題として悪魔や民衆をとりあげることが多く、また、それらをこれほど正面から表現できた音楽家は他に例がないように思います。
そこにはつねに彼の人生観や視点がありました。
■3.ジャンルを問わない面白さ
クラシックの曲でこれほど様々な楽器、楽器編成、他分野の音楽(ロックなど)での編曲がある曲はないでしょう。このことはムソルグルキーの意図した ものではありませんが、彼の音楽を表現するために生じた現象ですから、やはりこうした魅力ある題材を生み出したムソルグスキーのおかげと考えてよいでしょ う。実際、これほど多くの人が手間をかけて、今なお彼の音楽の進化に手を貸していることはすごいことだと思います。私は、何となくですが、ガウディのサグ ラダ・ファミリア教会のようなものだと感じております。当の本人は亡くなっても、多くの人がそこに集まり、その芸術を完成させるために膨大な時間をかけ、 自分の作品として昇華させているからです。
音楽の発展は、楽器の進歩に依存している一面があります。従って、多くの作品で楽器編成の変遷があります。しかし、多くの場合、作曲家の指示した楽
器や楽器編成に大筋で従っており、おおきな変貌はないと言っていいでしょう。少なくとも、「展覧会の絵」のヴァリエーションの豊富さは特筆できます。
「展覧会の絵」にはさまざまな演奏があります。形式的には2つの形態があります。
また、それぞれの演奏者または編曲者にとって、課題となるのは次の3つ。
私は、どのような組み合わせであれ、面白いと思います。例えば、ビドロの出だしをどうするか、とか第5プロムナードを省略するか否かといったこと
も、その
演奏家の感性のあらわれであり、いろいろな試みをいつも面白く感じています。
ところで、ムソルグスキーはピアノ譜にいくつかの異稿を残しています。まるで、「あなたの感性に従って、好きな方で演奏してね。」と言っているよう
で、演奏者の自由度やインスピレーションをかなり認めているというか、それを期待しているのではないかとも思えます。絵を見て、その感動を伝えるとき、人
はいろいろな言葉遣いや表現を使います。それはその人それぞれの感性や生まれ育った背景に基づくものです。ハルトマンの絵にインスパイアされてムソルグス
キーが曲を書いたように、ムソルグスキーの原曲をきっかけに新しい演奏や編曲が生まれ、アニメーションまで生み出されているのを、きっとムソルグスキーは
あの世から楽しんで見ていると思います。
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