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ベ ゼクリク千仏洞の壁画・誓願図
〜失われた9号窟の壁画はどのような
壁画であったか〜
山名清隆
◆ベゼクリク千仏洞
中国の最北西端、新疆ウイグル自治区の中ほどにトルファンという街があり、その郊外にベゼクリク千仏洞とよばれる仏教石窟寺院群がある(写真
1、2)。こ
こはかつて仏教美術の粋を集めたというべき壁画の宝庫であった、と多くの紀行文やガイドブックは書いている。しかし、現在、見るべき壁画はほ
とんど残って
いない。多くの壁画はひどく傷つけられているうえに、漆喰ごと剥ぎとられ、その下の日干しレンガがむきだしになっているところも少なくない。
ここに、どのような壁画があったのか! 素人にでも手にはいる1冊の写真集と本を頼りに、「安楽椅子探偵」の真似事をしてみた。はじめは暗中
模索であった
が、それでもすこしずつわかってきて、そのうちにかつてここにあったみごとな壁画の写真を見つけ出すことができた。さらに、それらの壁画がど
の石窟のどこ に、どのように描かれていたか、ということもわかった。
◆「最もすぐれた誓願図」
陳舜臣「シルクロード旅ノート」(徳間文庫)には、ベゼクリク千仏洞の壁画のことが比較的くわしく書いてある。それによると、ベゼクリク千仏
洞には、ほか
のところにはない誓願図という壁画があって、なかでも「最もすぐれた誓願図」ともいうべきものがあった。しかし、その「最もすぐれた誓願図」
は、19世紀
初頭にやってきたドイツの探検隊が「洞窟ごとそっくり切り取った」ので、「あとはもぬけの殻だけが残った」ということである。なお、剥ぎとら
れた壁画はベ ルリンへ運ばれ、復原されたらしい。
ただし、「最もすぐれた誓願図」が、どのような構図の壁画であったのか。また、それは、現在80あまりある石窟のうちのどれにあったのか。ま
た、「もぬけ
の殻だけが残った」という書き方からすると、「最もすぐれた誓願図」は単数ではなく、複数あったようにおもわれるが、はたしてそうであったの
か。このよう な疑問にたいする答えはない。
二度目にベゼクリク千仏洞を訪れたとき、中国人のガイドさんにベゼクリク千仏洞の写真集や本を送ってもらうように頼んだ。送られてきた写真集
(「吐魯番伯
孜克里克《トルファン・ベゼクリク》石窟」新疆人民出版社、上海人民美術出版社)には壁画のカラー写真が掲載されており、本(「高昌壁画輯
佚」新疆人民出
版社)にはトルファン地域から国外に持ちだされた多数の壁画の模写がのっている。模写は黒い線だけで描かれたものであるが、たいへん精密で、
写真との対応 は容易であった。それに、模写に添えられている説明文がたいへん役立った。
わたしには、中国文は読めない。しかし、毎日毎日眺めているうちに意味のわかる部分がすこしずつ見つかってきた。そして、1ヵ所がわかれば、
それが手がか りになって数カ所がわかる。こうして、必要な情報をなんとか手に入れることができた。
◆誓願図はどのような壁画か
まず手はじめに、写真集や本を丹念に探してみた。しかし、誓願図という名前の壁画はなかった。そのとき、いまもベゼクリク千仏洞に残っている
1枚の誓願図
が、陳舜臣・NHK取材班「天山南路の旅」(日本放送出版協会)にのっていることを思い出した。それを見ると、壁画の中央に仏が立っており、
その左右に数
人の菩薩や供養人が小さく描かれている。ユニークな構図の壁画だ。さっそく、この構図の壁画を写真集や本のなかで探してみると、写真集には
10あまり、模
写の本には20あまりも見つけることができた。そのうち写真集の7つと、本の13はそれぞれ一つのグループとして掲載されており、しかも写真
の7つはすべ て13の模写のなかに含まれている。つまり、これらの写真と模写は同一グループの壁画だということがわかる。
ただ、構図は同じであっても、写真集や本では供養画という名前になっていて、誓願図ではない。この点が不安であったが、そのうち本のなかに
「所謂供養画、
即是礼拝供養仏的画、国外亦将其称為誓愿画」という文章を見つけた。これで供養画=誓願図であることがわかり、心配は解消された。
◆これらが「最もすぐれた誓願図」ではないか
写真集にのっている7つの誓願図と、本にのっている13の誓願図はじつに精巧であり、色彩もすばらしい(写真3、4)。あとで触れるように、
これらは
1000年もまえの壁画だというのに、描かれたばかりのように鮮やかである。そして、これらの誓願図は、他の誓願図にくらべて、素人目にも格
段にすばらし
く緻密な壁画であることがわかる。陳舜臣が「最もすばらしい誓願図」といったのは、これらのことではなかろうか。この点を検証してみよう。
まず、「最もすぐれた誓願図」は、すでに触れたように、ドイツの探検隊によって剥ぎとられ、ベルリンの民族博物館に運ばれた後、まるでジグ
ソーパズルを組
み立てるように、「つなぎ合わせて復原」された、ということである。ところで、すでに写真3を見てお気づきであろうが、13の誓願図のいずれ
にも縦横に
3〜4本ずつの、ほぼまっすぐな「傷」がある。壁画を漆喰ごと剥ぎとったときの傷にちがいない。つまり、写真や模写の誓願図は、つなぎ合わせ
て復原された
ものだということになる。あとでこれらの壁画の大きさに言及するが、それから計算して、壁画は70〜80cm角に切断されたことがわかる。
さらに、それぞれの模写に添えられた説明文の末尾を見ると、「勒柯克《火州》図版○○」と書いてある。「勒柯克」はドイツ隊の隊長であるル・
コックの漢字
表記であり、「火州」は彼が著した、ベゼクリク千仏洞の壁画に関する本のタイトルである。したがって、これらの誓願図はドイツ隊によって剥ぎ
とられたもの であり、そして、これらの模写が彼の本の図版をもとにして描かれたものであることは確かだ。
さらに陳舜臣によれば、「最もすぐれた誓願図」は復原された後、ベルリン空襲で灰燼に帰してしまった。ル・コック著、木下龍也訳「中央アジア
秘宝発掘記」
(中公文庫)の解説のなかでも、「ベルリンの民族学博物館に現地どおり復原して固定した壁画は、空襲のため失われた」とある。そうであれば、
これらの誓願 図はもはやこの世には存在しないことになる。
◆これらの誓願図はどの石窟にあったか
これら13の誓願図は、ベゼクリク千仏洞のなかのどの石窟にあったのだろうか。そのことについて、またも手がかりを与えてくれたのは模写に添
えられている
説明文であった。それぞれの模写に「伯孜克里克(ベゼクリク)9窟」と書かれている。つまり、これらの誓願図はすべて9号窟にあったのであ
る。
ここで、ベゼクリク千仏洞全体について簡単に説明しておこう。現在、80あまりあるといわれる石窟は、西遊記で有名な火焔山の北麓、断崖の中
腹にあって、
そこへ降りていくためには長い階段を下りなければならない(写真1、2)。階段を降りたすぐ右にあるのが4号窟で、その右側5つ目が9号窟で
ある(これら
の窟番号は、ドイツ隊によるものである。しかし、現在、窟の入口に掲示されているのはトルファン文管所の番号で、それによればそれぞれ15号
窟と20号窟 である)。
繰りかえしになるが、それでは9号窟にあった誓願図が陳舜臣のいう「最もすぐれた誓願図」であろうか。本当のところは、本人に聞いてみなけれ
ばわからな
い。何年かまえ、「あなたが『最もすぐれた誓願図』とよんでいるのは、9号窟の請願図ですか」と問い合わせてみた。ただし、返事はない。しか
し、上記のよ うなことから考えて、たぶん9号窟の誓願図が「最もすぐれた誓願図」であろう。
◆9号窟はどのような石窟か
これらの誓願図が描かれていた9号窟は、どのような構造をしているのであろうか。幸いなことに、模写がのっている本の巻末にル・コックが描い
た9号窟の平
面図が転載されている(図参照)。それによると、その内部は縦約11m、横約8mであり、中ほどに中間窟がある。したがって、中間窟と石窟の
内壁とのあい だにコの字型の回廊ができる。そして、話はすこし先走るが、いま問 題にしている誓願図はこの回廊の両側の壁に描かれていたのである。
ところで、これまで「最もすぐれた誓願図」の数は全部で13だとしてきた。しかし、ル・コックの「中央アジア秘宝発掘記」をみると、15面の
大仏画(問題
にしている誓願図)を発見したと書いてある。そして、模写をのせた本にも、「其中供養画編号第K、L毀」と書かれている。つまり、誓願図は全
部で15 (@〜N)あったが、そのうちのKとLは破損したらしい。剥ぎとるときに壊したのであろう。
ここで、ベゼクリク千仏洞はいつごろ造営されたか、という点にも触れておこう。もっとも古い窟は5〜6世紀、もっとも新しいものは13〜14
世紀であろう
といわれている。そして、問題の9号窟は、10世紀末ごろ、当時この地域を支配していたウイグル高昌国の王室によって造営されたものだそう
だ。したがっ て、壁画は1000年近くまえに描かれたことになる。
◆誓願図は大きな壁画であった
さきほど述べたように、15の誓願図はコの字型回廊の両側の壁に描かれていた(図)。そして、写真や模写を見ると、誓願図はたがいに相接する
ように並べて
描かれていたことがわかる。そうだとすると、誓願図のおおよその横幅は回廊の両側の壁の全長を15で割ることによって求められる。中間窟の外
壁は三面で
15m強、石窟の内壁は三面で25m強、合計して40m強である。とすると、一つの壁画の横幅は約2.7mとなる。他方、壁画の高さはどのく
らいあったで
あろうか。それを知る手がかりは回廊の高さである。しかし、ル・コックの平面図に高さは記されていない。ただし、石窟のおおよその高さは5m
くらいだと書 いてあるから、壁画の高さは3〜4mであっただろう。
模写に添えられた説明には、それぞれの大きさが明記されている。平均して高さは3m強、横幅は2〜3mである。なお、誓願図B(写真3)は
「高3.25
米、寛1.95米」ということで、これは例外的に幅が狭い。また、説明文や図から、この誓願図Bが回廊の左側入口からはいって左側3番目に描
かれていたこ ともわかる。
誓願図は高さが3m強、横幅が2〜3mだとわかってみれば、中央に立っている仏は人の背丈の2倍に近いことになる。このような大型の壁画が回
廊の両面に びっしりと並んでいたのであれば、回廊の内部は華麗、豪華であったばかりでなく、迫力もあったにちがいない。
なお、この9号窟は、回廊部分だけでなく、窟のほぼ全面に壁画が描かれていた。そして、それらの多くもまたドイツ隊によって剥ぎとられ、ベル
リンへ運ば れ、「もう一つの9号窟」の復原に利用された。こうして、ベゼクリク千仏洞には「もぬけの殻だけが残った」。
◆コの字型回廊は右回り
誓願図Bを見ると、中央に立っている仏は左を向いている。しかし、右向きのものもある。そして、13の誓願図を回廊の所定の位置に並べてみる
と、おもしろ
いことがわかる。中間窟の外壁に描かれているものでは、仏はすべて右向きであり、反対に、石窟の内壁の仏はすべて左を向いている。つまり、す
べての仏は回 廊の右出口の方を向いているである。
その理由は、たぶん次のとおりであろう。よく知られているように、仏教寺院のなかや塔のまわりは右回り(時計回り)にまわる。参詣人が回廊の
なかを右回り
に回ると、すなわち左入口からはいり、中間窟の後ろをまわって右出口から出るとすると、参詣人たちは仏の視線に見送られて回廊を歩くことにな
る。もっとい うと、参詣者たちは仏たちとともに歩くと考えたのかもしれない。
◆かつての回廊をしのばせる写真がある
すでに述べたように、階段を降りたところに4号窟がある。この4号窟は、9号窟と同じ時期に造営されたもので、しかも、構造も壁画の配置も基
本的に同じで
あったことがわかっている。この4号窟の回廊の右角を、1979年7月、共同通信社取材班が写した写真がある(写真5)。「シルクロードの旅
砂と緑と太 陽と」にのっている(説明文では19窟となっている。しかし、ドイツ隊の4号窟に相当する)。
回廊の突き当りに一つの誓願図が写っているが、これがいまベゼクリク千仏洞に残っているもののなかで最良の誓願図らしい。しかし、手前の、両
側の壁は、日
干し煉瓦がむき出しになっている。誓願図が剥ぎとられた跡である。しかし、天井は宝相(ほうそう)花団紋で埋めつくされていて、たいへん美し
い。たぶん、 9号窟の回廊もこれと同様に全面が絢爛たる壁画で飾られていたにちがいない。
◆なぜ9号窟の誓願図は無傷で発見されたか
ル・コックたちがこれら15の誓願図を発見したとき、ほぼ完全な姿で残っていた。その理由は、窟内が大量の砂で埋もれていたためらしい。砂の
おかげで、荒
廃を免れたのである。ル・コックの「中央アジア秘宝発掘記」には、発見当時の模様が次のように書かれている。「(大量の砂を取り除くと)むき
出しになった
左右の壁面に、さながら魔法の力によってでもあるように、今描き上げたばかりの真新しさで、すばらしい彩色の画面が現われ出でたのである」。
しかし、その ような偶然の幸運によってもたらされた誓願図も、もはや存在してはいない。
◆9号窟の現状
紀行文やガイドブックが「最もすぐれた誓願図」について触れていない、ということを何度か嘆いたが、この窟の現状にもまったく触れていない。
もっとも有名
な紀行文である陳舜臣・NHK取材班「天山南路の旅」も、この点では同じである。別の窟に残っている誓願図の写真は掲載しているが、さらに華
麗な9号窟の
誓願図についてはまったく言及していないし、9号窟そのものの取材もしていない(「第九窟」を取材したと書いてある。しかし、この「第九窟」
はいま問題に している9号窟ではない)。
わたしは二度このベセクリク千仏洞を訪れたが、そのときはまだ「最もすぐれた誓願図」のことも知らなかったし、ましてそれらが9号窟にあった
ということも
知らなかった。その後、ベゼクリク千仏洞を訪れた2人の友人に頼んで、9号窟、とくにそのコの字型回廊がいまどのようになっているか見ても
らった。回廊部
分は暗く、懐中電灯で見るかぎり、壁画も何も残っていないということであった。また、回廊以外の部分にもほとんど壁画は残っておらず、かわり
に、そこに あった誓願図などの写真が貼ってあるそうだ!
ベゼクリク千仏洞を訪れる機会があったら、ぜひとも9号窟を見てほしい。そして、かつての先進国の探検家たちが剥ぎとっていった壁画の運命に
思いをはせて いただきたい。