© 2002-2003, Kiyotaka YAMANA
タ リム盆地の北と南
〜タクラマカン砂漠の縦断〜
山名清隆
◆日本から西安、ウルムチを経てトルファンへ
2000年8月中旬、10人ほどのツアーに参加して、中国の北西部に位置する新疆ウイグル自治区を訪れた。三度目である。今回
は、その南部に
あるタリム盆地を北から南へ縦断する。タリム盆地は北を天山山脈に、南を崑崙(こんろん)山脈にはさまれていて、東西約1500キロ、南北約
600キロ、
広さが53万平方キロ(日本の1.4倍)で、その中央部にタクラマカン砂漠が広がっている。紀行文やガイドブックによれば、「タクラマカン」
というのは 「迷い込んだら出てこられない」という意味だそうだ。
第1、2日。午後、福岡を発ち、青島経由で夕刻には西安到着。ここで一泊し、次の日、ウルムチへ飛んだ。所要時間は4時間。前回(1994、
95年)と変
わっていたことは、乗客の大部分が中国人であったことである。昼食後、トルファンへ向かって走った。約180キロ、2時間。ここで一泊。ホテ
ルの正面には
「熱烈歓迎奔流中国研修旅行団」という垂れ幕が張られていて、宿泊客の大部分が中国人であった。夕食後、ロバ車でトルファンの街を一巡した。
◆
トルファンからコ ルラへ
第3日。午前中、高昌(こうしょう)故城を訪れた。高昌は前漢の時代の前線基地であって、498年以降、唐に滅ぼされた640年
まで麹(き
く)氏高昌国の都であった。しかし、その後ウイグル族に支配されていたせいか、崩れかかった建物はレンガ造りで、いずれもイランやインドの形
式である。な お、ここも中国人の観光客で混雑していた。
午後1時半すぎ、トルファン駅から南疆鉄道の「天鵝号」に乗った。コンパートメント式の寝台車である。乗車するとすぐ、同行者の多くがティ
シューを片手に プラットホームに降り、せっせと窓ガラスを拭きはじめた。窓ガラスが汚れていて、写真をとることができないというのである。
やがて列車は走りはじめた。もっとも低い地点が−154メートルだというトルファン盆地から、天山山脈の3,000メートルの峠へ向かって
登っていく。登
るにつれて草原がひろがり、ウシ、ウマ、ヒツジが放牧されていた。カザフ族のパオもあった。そして、遠くには万年雪をいただく山並みを見るこ
とができた。 476キロ走ってコルラに到着した。午後11時に近かった。現在のコルラは、油田開発のための新興都市である。
◆コルラからバスでクチャへ
第4日。8時半、車でコルラを出発し、北側に天山山脈を眺めながらクチャまで走る。約250キロ。あと5キロの地点にきたとき、行く手を
100メートルほ
どの濁流に阻まれた。前夜の雨が道路も橋も押し流したのである。両岸にはすでに10〜20台のトラックやバスが立ち往生している。川岸へ行っ
てみると、2 人の青年が川を渡っている。深さは膝のあたりまでらしいが、流れは急である。やがて無事に向こう岸にたどり着いた。
ガイドさんがクチャのホテルに連絡をとった。このようなときの携帯電話はありがたい。ホテルの車が対岸まで迎えにきてくれることになった。な
んとかして対
岸にたどり着かなければならない。幸いなことに、川下に南疆鉄道の鉄橋が見える。この時刻には南疆鉄道が運行していないことを確かめ、鉄橋を
渡ることにし
た。スーツケースは車に残しておき、さしあたり必要なものだけを背負ったり、手にもったりして、川下に向かった。かんかん照りではあるが、湿
度が低いので
汗をかくことはない。ただし、石がごろごろしていて歩きにくい。鉄橋を渡り、向こう岸をさかのぼって、ようやく対岸の道路にたどり着いた。ま
もなくやって きたホテルの車に乗り、クチャの街にはいった。ところで、わたしたちのあとを追って鉄橋を渡る人はいなかったようだ。
午後4時まえ、ホテルに着いた。昼食後、郊外にあるスバシ故城に向かった。いまでは「故城」とよばれているが、7世紀はじめに訪れた玄奘は昭
怙釐(しょう
こり)伽藍と記していて、西域最大の仏教寺院の一つであったらしい。赤土のレンガで作られた建物はもはや瓦礫の山でしかないが、午後の日を浴
びてますます 赤く見えた。対照的に、頭のうえの空はコバルトブルーであった。
西の端に高さ7〜8メートルの仏塔があった。この塔からは、1978年、木棺にはいった1500年ほどまえのミイラが発見された。しかも、そ
の頭蓋骨が扁
平になっていたというのである。仏塔の基部を覗いてみると、洞窟はあったが、ミイラはどこかの博物館に保管されているということだった。
「大唐西域記」によれば、このクチャやカシュガルでは生まれた子供の頭を前後から木片で押さえ、扁平にする風習があったそうだ。ところで、こ
のような風習
は世界の各地にあったらしい。たとえばマヤでも頭を扁平にしたと書かれているし、その方法を示す簡単な図も見ることができる。さらにエジプト
やアフリカ、
そしてアジアなどでも扁平にした頭蓋骨が発見されているそうだ。このほかにも体の一部を変形したり損傷したりする慣習はあちこちにあって、ひ
とまとめにし
て身体変工とよばれている。耳たぶや鼻に穴を開ける、指を切断し歯を抜く、腰を細くする、首を伸ばす、足を小さくする、刺青をほどこすなど、
じつに多種多 様である。
◆クチャ
第5日。今日はキジル千仏窟などを訪れる。しかし、昨日からまったく食欲がない。ここ2〜3日、食事の時間がめちゃくちゃになっているためで
ある。食事の
時間が狂うと生活のリズムも狂う。わたしにはこれがいちばん応(こた)える。キジル千仏窟も見たいが、今日はホテルでのんびりすごすことにし
た。
夕方6時すぎ、同行者たちが帰ってきた。このあと、いっしょに舞踊を見に行った。クチャすなわち昔の亀茲(きじ)は、かつて唐の長安でも有名
であった「亀
茲楽」の地である。約1時間のショウーであった。楽器の確かな名前はわからないけれど、弓で弾く弦楽器のギジェクと指で奏でる弦楽器のラワー
ブ、手でたた
く打楽器のダップだったようだ。みんなで800元のお礼をした。11,000円あまりである。この後、バザールへ向かった。日用雑貨はもとよ
り、食べ物や 果物など、じつにさまざまなものが売られていた。
◆タクラマカン砂漠を縦断
第6日。今日はいよいよタクラマカン砂漠を縦断する。まずいったん東へ約100キロ引き返した。その途中、道路が決壊した箇所を通過したが、
水はすでに
10センチほどになっていた。車は当然のことのように川のなかを走ったけれど、日本だったら昼夜兼行で仮の橋がかけられていたことであろう。
タクラマカン砂漠の北の入り口にやってきた。ゲートの上には「塔理木(タリム)沙漠公路」、左右には「千古夢想沙海変油海」、「今朝奇跡大漠
変通途」と書
いてある。油田開発のためにつくられたこの「沙漠公路」は、全長が522キロ、1995年に開通した。入り口から時間にして30分あまり、距
離にして40
キロ弱のところに大きな川があった。タリム川である。パミール高原や崑崙山脈に発したいくつかの川を合流し、タクラマカン砂漠の北部を西から
東に流れる内
陸アジア有数の大河だ。全長約2200キロ。橋の長さは605メートル。歩いて渡った。水はゆったりと流れ、その水面をツバメが飛んでいた。
両岸には植物
が茂っている。なお、このあと砂漠のところどころに、かつてのタリム川の川床を見ることができた。タリム盆地は南側がすこしずつ隆起している
ので、タリム 川は北へ北へと押しやられているのである。
タリム盆地の周辺部では、タマリスクと胡楊(こよう)が見られる。タマリスクはちょうど花の季節で、紫がかった紅色の花が目を楽しませてくれ
た。胡楊はポ
プラの一種であるが、背丈はせいぜい10メートルくらいしかない。しかし、枝を左右に伸ばし、砂漠のなかに立っている姿は英雄樹というニック
ネームにふさ わしい。絶滅が危惧されているそうだ。タリム川の流域から離れるにしたがって、枯れた胡楊が目立つようになる。
タクラマカン砂漠の中心部は、もちろん見渡すかぎり砂、砂、砂である。しかし、平坦なところばかりではない。高さ数十メートル、ときにさらに
高い砂丘が幾
重にも連なっていて、自然の造形美をつくりだしている。砂の粒はたいへん小さく、太陽に照りつけられた砂漠の表面は裸足では歩けないほど熱
い。ところで、 このタリム盆地は核実験場の風下にあたるが、どのくらい放射能に汚染されているだろうか。
沙漠公路は片側一車線くらいの舗装道路である。道路の両側には、まるでフェンスのようにヨシが埋められている。砂止めである。砂の動きが止
まっているらし
いところでは、わずかながら植物が生えている。このヨシについては、いぜん次のような新聞記事を見た。「1995年、石油採掘のために造られ
た全長522
キロの沙漠公路を砂漠化から守っているのは、道路の両脇数十メートル一面に埋め込まれたアシ(注 ヨシはアシともいう)だった。周囲の砂を塩
で固めたり、
薬品を使うなどの方法が試みられたが、最終的に『最も原始的な方法が最も有効だった』(現地当局者)という」。もっとも、風の強いところで
は、砂はまるで 川のように道路の表面を流れていく。また、ときおり道路のそばを小さな竜巻が走りすぎ、砂を空に巻き上げていった。
午後2時ごろ、たぶん砂漠のなかの唯一のレストランで昼食をすませた。粗末な建物で、ハエが飛び回ってはいたが、清真(イスラム)料理はおい
しかった。砂 漠のど真ん中だというのに、トイレの周りでは水が流しっぱなしになっていた。
不思議なことに、油田関係の施設が見えなかった。しかし、あとで次のように書いたものを読んだ。「起伏して延々とつづく砂漠の間に針のように
小さく見える
石油探査のボーリング用の井戸の枠組みを発見することがある」。「針」のようだとすれば、見逃したのであろう。それにしても、油田関係の車に
も出会わな かった。ガイドさんに尋ねてみたが、納得のいく返事はなかった。帰国後、スクラップブックのなかに次のような記事を見つけた。 「
『伸び悩むタリム油田』 採掘遅れ原油価格落ち込む.
当初の計画では2000年までに年産800万トンを目指していたが、原油価格の落ち込みなどから、現在、年産は400万トンレベルらしい。そ
して、93年 の外資解放後、日本企業4社が参入していたが、そのうちの2社はすでに撤退した 」
午後6時半をすぎたころ、500キロ地点を通過した。ふたたびタマリスクが見られるようになり、やがてあちこちにヨシの密生した沼も現れてき
た。カササギ
に似た鳥もいたし、草原ではヒツジが放牧されていた。沙漠公路の出口にやってきた。新聞や紀行文は沙漠公路の全長を522キロと書いている
が、道路標識は
561キロであった。車を降りてハミウリを食べていると、そばをロバ車が何台か追い越していった。どれも胡楊の枯れ木を満載している。燃料に
するのだろ う。目的地の民豊まで、あと23キロ。
民豊の小さなホテルにも、バスタブがあった。また、驚いたことに窓は二重窓で、スチーム暖房の設備があった。ある紀行文を見ると、「一番寒い
のは1、2
月、大体零下15、6度、時には零下20度になるという」と書いてある(ちなみに、民豊の緯度は金沢や長野それと同じくらいである)。ところ
で、「一番暑
いのは7月中旬、昼は38度から40度」だというのに、暑さ対策のほうは扇風機一台だけだった。なお、この民豊の北約100キロの砂漠のなか
にニヤ遺跡が ある。3世紀のころの、楼蘭王国最西端の国の跡である。
◆ホータンヘ
第7日。今日は西域南道最大の町ホータンへ向かう。約340キロ。出発にさきだって、ホテルの玄関脇のトイレに入ってみた。いまではホテルや
空港のトイレ
はほとんど洋式になっていて男性用の小便器もあるが、ここはまだ古い形式のままであった。ホテルを出たところにはロータリーがあって、「自力
更生艱苦奮
闘」と大きな文字で刻んだ塔が立っていた。このようなスローガンを刻んだ塔は、このあとも何度か見かけたし、農民たちと握手している毛主席の
大きな像も あった。
途中のケリヤでは、珍しいものを見た。年配のウイグル女性がかぶっている小さな帽子タルパックである。車を止めてもらい、写真を
とらせても
らった。井上靖・長澤和俊・NHK取材班「流砂の道」によれば、「民豊では、年輩の女性は、径10センチほどの円錐台形の『小帽子』を被って
いる。それ
は、黒いものでピンで髪にとめるのだが、聞けば民豊とケリヤ(民豊の西150キロ、于田)にしか見られない風俗で(仮に他で見られるとすれ
ば、それはこの
地方の出身者とわかるという)、この地方特有の伝統的風俗であるという」。しかし実際には、この小帽子は髪に直接にとめるのではない。NHK
取材班の写真
を見ても、女性たちは頭を白いヴェールで被い、小帽子はそのうえにのせている。同行者の一人が確かめたところによると、ヴェールに縫いつけら
れていたそう
だ。この帽子の天井部分は絹織物で、底は子ヒツジの皮で作られているらしい。そして、世界一小さな女性用の帽子としてギネスブックにものって
いるというこ とである。なお、このほかに小帽子をかぶった人は見かけなかった。
民豊からホータンへ向かう道路は崑崙山脈の麓に沿っていて、大部分は砂漠のなかを走っている。途中にはいくつかのオアシスがあり、小さな町が
あった。オア
シスの入り口と出口にはきまって背の高いポプラ並木があるので、遠くからでもオアシスがあることがわかる。わたしたちが車から降りると、たち
まち子供たち
が集まってくる。彼らにいちばん人気があったのは、同行者たちのデジカメであった。それに写っている自分たちの姿を見ると、彼らは歓声をあげ
た。
ホータンの街に入ったのは、たぶん午後2時か3時ころであった。街のなかに入ったとたん、いささか失望した。昔のホータンは、もう残っていな
いようだ。ホ テルで昼食をすませ、午後4時ころに出かけた。
まず、ホータンの郊外へやってきた。そこは砂漠の入り口で、ここからラクダに乗って砂漠を1時間歩くことになっている。ラクダはフタコブラク
ダで、鞍が二
つのこぶのあいだにおかれているので安定はよい。しかし、ラクダが立ち上がるときは気をつけなければならない。おおきく前後に傾くからであ
る。一人の男性
が、わたしたちの乗ったラクダを一列につないで先頭を歩いていく。砂丘に生えているのは、おもにラクダサシであった。鋭い棘の生えたマメ科の
植物で、ラク ダはこの植物を好んで食べるが、棘のために口から血を流すということだ。
そのあと、崑崙山脈から流れてくる白玉川の川原にやってきた。ここで玉(ぎょく)探しをする。ホータンの玉は、古くから「崑崙の玉」あるいは
「于(う)て
んの玉」といわれて貴ばれたそうだ(于てんの「てん」は門構えに眞。于てん国は、漢、唐、宋の時代のホータンの呼び名である)。紀元前100
年ごろに亡く
なった中山王(前漢の武帝の庶兄)に着せられていた「金縷玉衣(きんるぎょくい)」は、玉の小さな板2498枚を純金の針金で綴り合せてつく
られているそ
うだが、その玉もホータンの玉だといわれている。ところで、わたしたち素人に見つけられるだろうか。同行者の一人が、それらしいものを拾っ
た。「鑑定」し たガイドさんがいうには、「10元(140円)くらいでしょう」。7時すぎにホテルへ帰ってきた。
◆ホータンからアクス経由で空路、再びウルムチへ
第8日。午前中は、ホータンの南東27キロのマリカワチ故城へ行く。ホテルからマリカワチの村までは車で、そこからロバ車に乗り換え遺跡の中
心部へ向かっ
た。遺跡の入り口の立て札には、「マリカワチは漢から唐にかけての遺跡で、漢代于てん国の都」と書いてあるらしい。しかし、あとで触れるが、
これはどうや
ら間違いである。このマリカワチ遺跡は、東西2キロ、南北10キロである。途中の道には丸い、比較的大きな石が一面にごろごろ転がっていた。
すぐそばを白
玉川が流れているところを見ると、大水によって運ばれてきたにちがいない。遺跡のなかほどには泥の家のようなものが2つ、3つ残っていた。ど
れも、ひどく 壊れていた。ところどころに黒茶色の陶器片が落ちているだけで、ほかに見るべきものはなかった。
ところで現在では、于てん国の都はホータンの西13キロのヨートカン遺跡であるというのが定説らしい。それにもかかわらず、中国ではなぜマリ
カワチ遺跡を
于てん国の都としているのだろうか。素人にわかるわけはないが、一つには、ヨートカン遺跡が完全に破壊されてしまっているらしいこと、そし
て、「マリカワ
チ=于てん国の都」説を主張しているのが中国人の考古学者・黄文弼だということと関係があるかもしれない。19世紀初頭にはじまった「中央ア
ジア探検」の
さいの、日本人を含む外国人研究者たちの傍若無人な「探検」に対して、中国の人たちが強い反感を抱いているとしてもすこしも不思議ではない。
この後、市内 の小さな博物館を見学した。
いよいよ旅も終わりに近づき、午後はウルムチへ帰る。当初は14時の飛行機に乗る予定であったが、この便は欠航となり、18時40分の飛行機
に乗ることに
なった。中国では、このようなことは珍しいことではない。わたしたちは昼食後ホテルを出て、ウイグル族の小さな織物工場へ向かった。この一角
には、まだい
くらか昔の町並みが残っていた。工場のなかでは、繭から絹糸を繰っている人や、ウイグルの文様(アトラス)の織物を織っている人がいた。ま
た、織りかけの
絨毯も立てかけられていた。ここでも、同行者の多くがいろいろと買い物をした。その後、近くのバザールへ行った。多種多様なドライフルーツが
並べられてい
たし、大きな絨毯をいくつも頭のうえに吊るした店もあった。懐かしかったのは、子どものころの駄菓子屋さんのような店があったことだ。つぎに
行った玉の加
工場でも、買い物をする人が多かった。しかし、ホータンの玉は品質がよいので、加工はもっぱら北京や上海でおこなわれているらしい。したがっ
てホータンで 買うと、他の産地の玉を買うことになりかねない。
ホテルで早い夕食をすませた後、空港へ向かった。定刻になっても、搭乗手続きははじまらない。乗務員が食事をしているということだった。飛行
機は72人乗
りの双発プロペラ機である。乗り込んでみると、ホータンからの乗客は後ろ半分の座席にかたまっていて、前半分は完全に空席になっている。「大
丈夫だろう
か」とおもっていると、案の定、離陸してまもなく全体に分散して腰掛けるようにというアナウンスがあった。そして、経由地アクスでは荷物を
もっていったん
外に出るようにと指示された。ところが運悪く、タラップを降りたとたんに雷鳴とともに大雨が降りはじめた。わたしたちが空港ビルに駆け込む
と、いれかわり
にアクスからの乗客が雨のなかを飛行機に向かって走った。つぎに、係員はわたしたちにも乗るようにという。いったい何のために飛行機から降り
る必要があっ たのか。ふたたび雨のなかを走った。
予定より大幅に遅れて、ウルムチ空港に着いた。ホテルでは5年ぶりに会う友人が待っていてくれていて、午前2時ごろまで話をした。
◆ウルムチの街
第9日。6時半のモーニングコールは、しょうしょう辛かった。ホテルを出て、まず紅山公園へ行った。ここからウルムチの街を眺め、その急激な
変わりぶりに
驚かされた。5年まえには数えるほどしかなかった高層ビルが林立し、高架のハイウエーが街のなかを縦横に走っている。次に訪れた新疆ウイグル
自治区博物館
では、ガイドさんの説明が印象的だった。「新疆ウイグル自治区の多くの遺跡では、ひじょうに早い時期から漢字で書かれた文書などが発見されて
いる。このこ
とは、この地域が古くから中国に支配されていた証拠である」。しかし、この論法でいくと、昔の日本も中国の被支配地だったことになる。最近と
くに、中国が
少数民族対策に神経質になっている様子をうかがうことができた。この博物館では、有名な「楼蘭の美女」のほかに、最近発掘された「営盤の美
男」のミイラを 見ることができた。うっすらと笑みを浮かべた仮面をつけ、鮮やかな毛織物の服を着ていた。
ウルムチ空港のレストランで昼食をすませた。13時発の西安行きは直行便だと聞いていたが、蘭州経由に変更になっていた。西安には17時45
分ころに到着 した。市内の有名な餃子店で夕食をとった。
◆ウルムチから青島経由で帰国
第10日。帰国の日である。7時半にホテルを出て、空港に向かった。すでに小学校や中学校の生徒たちが登校している。9時、定
刻どおりに出 発。青島経由で、無事に福岡空港に到着した。