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休八写真館資料室

KWの系譜



ドイツ東部の街、ドレスデンにカメラ・ヴェルケ(KW)というメーカーがありました。

さまざまなフォーマットのカメラを作り、どのカメラにも革新的な機能や、す ぐれた性 能とデザインが施され、カメラ史へ大きな貢献をした会社でした。しかし、時代の波に翻弄され、苦難の道を歩んだ会社でもありました。このページは そういう KW のカメラと歴史を簡単ではありますが、まとめたものです。


■1.主なカメラ


ガラス
乾板
折り畳み
二眼レフ

中判ミラー
シャッター機
35mm
一眼レフ
中判
一眼レフ
備考
1920 Patent Etui



ハンドカメラの名機。ガラス乾板カメラ。120フィルムも使用できる。皆川 商店の First Etui の原型。
1931

Pilot


ベスト半裁(3x4cm)の小型二眼レフ。スプリングカメラ的なカメラ。
1932


Pilot box


120フィルムを使った 6x9 一眼レフ。
1936

Pilot 6


世界最小の中判一眼レフ(6x4.5 と 6x6)。ミラーシャッター。
1938



Praktiflex
35mm一眼レフ。M40マウント。1947の最終モデルでM42マウント に 変更。Asahiflexの原型。
1939


Pilot super

Pilot 6 の後継機。レンズ交換可能。露出計も装備
1949



Praktica

Praktiflex の後継機。M42 マ ウントのはじまり。後継機は FX, FX2, FX3
1952



Praktina

Praktica の後継機。カメラのシステム化。
1957




Praktisix 6x6中判一眼レ フ。ペンタコ ンシックスマウントのはじまり。
1959


Praktica IV

ペ ンタプリズムを 持つ。Contax S や Pentacon の流れも汲む。後継機は V
1964



Praktica nova

VEB Pentacon が製造。後継機は PL, L, B, BX
1966




Pentacon Six
VEB Pentacon が製造。後継機は II, TL
1980




Kiev 6
Arsenal が製造。後継機は Kiev 6C, 60, 88CM。Arsenal はソ連崩壊後、Arax という会社になり Arax 60 を製造。
1986




Exacta 66 Ihage West が製造。後継機は II, III

*面白いことに KW のカメラは P で始まる名前ばかり。


■2.Praktica の変遷

Praktiflex SLR
(1939.3〜1949.9)
M40 スクリュー。1 - 1/1000。設計 Alois Hoheisel, Siegfried Böhm (1946,7-)
簡易のリターンミラー機能あり。ウェストレベルファインダー機。
1940年からストラップホルダーが付く。
第2世代で刻印やノブの形状変更。M42マウント機も出てくる。
Praktica
(1949.10〜1952.8)
M42 スクリュー。1/2 - 1/500。設計 Siegfried Böhm、
簡易リターンミラーは廃止(?)
ファインダー周りと額部分のデザイン変更。
ウェストレベルファインダー。折りたたむとほぼペタンコ。平面真ん中にKWのロゴがある。
ファインダーの上に専用アイレベルファインダー(ペンタプリズムユニット)を装着できる。
第1世代: フラッシュシンクロ接点は無い。
第2世代: F接点とX接点が底面に付く。
第3世代: F接点とX接点が前面左手に付く。
Praktica FX
(1952.9〜1955.7)
第3世代の Praktica と同スペック、同デザインだが、FX接点があることを示す名称に変更。
輸出モデル名は Praktiflex FX。
つまり、Praktica (3rd gen.) = Prakitica FX = Praktiflex FX 
Praktica FX2 / FX3
(1955.8〜1959.6)
ファインダー周りと額部分のデザイン変更。設計 Siegfried Böhm
ウェストレベルファインダー。折りたたむと波のような曲面を成す。曲面には3本のリブが入る。
ファインダーの上に専用アイレベルファインダー(ペンタプリズムユニット)を一体装着できる。
FX3は FX2 の輸出モデル名。variation 多数。
Praktica IV / V
(1959.6〜1966.1)
Zeiss Ikon と合併してできた人民公社 KW の製造。設計 Horst Strehle。
Contax S (1949-) や Praktina (1952-) の後継機にあたり、アイレベルファインダー機になる。
Praktica 名であるが、KW の Praktica とは別物



■3.社名と変遷

1915
Kamerawerkstatt Paul Guthe Dresden


Paul Guthe がドレスデンで創業
1918

第一次世界大戦でドイツ敗戦。
1919
Kamerawerkstäiten Guthe & Thorsch GmbH (KW)


Paul Guthe と Benno Thorsch の共同経営となる。
1926

Carl Zeiss 財団の働きかけで、Ika, Goeritz, Contessa Nettel, Erneman が Zeiss と合併し、Zeiss Ikon 社となる。合併に加わらなかったのは、KW, Kochmann, Vogtlander, Rollei など。
1937

Paul Guthe はスイスへ移住。
1938
Kamerawerkstätten Charles A. Noble (KW)


Benno Thorsch はアメリカへ移住。米国の Charles A. Noble へ KW 売却。
1941

第二次世界大戦勃発
1945

2/14-15 ドレスデン 空襲。ドイツ敗戦。米英仏露に分割占領され る。ドレスデンは、ソ連の支配下に おかれ、多くのカメラメーカーが接収される。Zeiss Ikon 社もドレスデンに本社があったため、Carl Zeiss Jena (東 独ツァイス) として存続したが、アメリカの保護を受けた従業員らはオーバーコッヘンに逃れ、そこでCarl Zeiss Opton (西 独ツァイス) を設立。このため、ツァイスも東西に分かれた形となった。
1946

Charles A. Noble とその息子 John はシベリア抑留される。
1949
東西ドイツに分離。
1953
VEB Kamera Werk Niedersedlitz (KW)


KW は人民公社(VEB)となるが、まだ独立した会社だった。
1959
VEB Kamera- und Kinowerk Dresden (KW)


東独ツァイスのカメラ部門である VEB Kinowerke Dresden と合併。独自性が失われる。
1964
VEB Pentacon Dresden Kamera- und Kinowerke (Pentacon)


KW の名が入っているが、ペ ンタコン社と呼ばれるようになり、実質的に KW の名が消失。
1989

11/9 ベルリンの壁崩壊。
1990

10/3 東西ドイツ統一。VEB Pentacon 消失。
1990
Kamera Werk Dresden (KW)


John H. Noble によって創業される。Noble の名を冠したパノラマカメラ Noblex を製造。John は2007年没。



■4.ドイツのカメラメーカーの変遷




■5.KW のカメラに詳しいサイト

Camerapedia.org
Flickr にできたカメラ専用の wikipedia。
Mike's Praktica Home
ドレスデン在住のコレクターHP。プラクチカが中心。文献などの網羅もしていて詳しい。
Praktisix Story -P6 の憂鬱-
プラクチシックスシリーズのみを紹介。修理方法などまで取り上げている。
Praktisix & Pentacon six

Communist Cameras という HP の一部。マニュアルがPDF で入手できる。
The Pentacon Six System

ペンタコンシックスのみをとりあげたHP。レンズの情報がすごい。


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