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ペ ルセポリスのフタコブラクダ
〜レリーフが語るバクトリアのラクダ
の物語〜
山名清隆
◆バクトリアのラクダ
「バクトリアのラクダ」をご存じであろうか。これはフタコブラクダのことであり、英語では Bactrian camel、学名でも
Camelus bactrianus とよばれている。 ちなみに、ヒトコブラクダはdromedary および
Camelus dromedarius というが、これは「走るもの」といった意味の言葉に由来するのだそうだ。
ところで、この「バクトリア」とはいったい何であろうか。それは世界最初の大帝国アケメネス朝ペルシア(紀元前6世紀後半〜紀元前4世紀前
半)に属してい
た国の一つで、現在のアフガニスタン北部にあった(アケメネス朝ペルシアの版図)。そして、バクトリアのラクダがたしかにフタコブラクダで
あったことは、
古代ギリシアの哲学者であり生物学者でもあったアリストテレス(前384〜前322)が、次のように書いていることからもわかる。「バクトリ
アのラクダ
は、アラビアのラクダと違っている。というのは、前者は瘤を2つもっているのに、後者は1つしかもっていない」。このことからみても、フタコ
ブラクダはず いぶん古くからバクトリアのラクダとよびならわされてきたようにおもわれる。
このバクトリアのラクダは、イランのペルセポリスへ行けばいまでも見ることができる。アケメネス朝ペルシアの時代に刻まれたレリーフ が残っているのであ
る。1998年8 月、40℃に近い暑さのなかをわたしはペルセポリスを訪れた。
◆ペルセポリスの宮殿跡
ペルセポリスはかつてのペルシア帝国の都であって、イラン南西部の街シラーズから60キロメートルほど内陸部へはいったところにある。紀元前
512年、第
三代の王ダレイオス一世のとき建設されはじめた(ペルセポリス宮殿の配置図)。まず、さほど高くない山の斜面に大きな切石を積みあげ、南北
455メート
ル、東西300メートルのテラスがつくられ、そのうえにいくつもの宮殿が建てられた。これらの宮殿はじつに豪華絢爛たるものであったらしい。
壁は釉薬をか
けて焼いたレンガで覆われ、屋根はレバノン杉の材で葺かれていという。しかし、紀元前330年、アレキサンドロスによって焼き払われて、いま
残っているの は石柱や石の門などごくわずかにすぎない。
ペルセポリスの西側の駐車場から、高さ15メートルのテラスへ登る。階段を登りきったところに、クセルクセスの門が立っている(写真1)。そ
こから右
(南)側前方に見えるのがアパダナ(謁見の間)であり、これが今回の目的の宮殿跡である(写真2)。これは100メートル四方の基壇のうえに
建てられた、
60メートル四方の宮殿であって、直径2メートル、高さ20メートル、6列36本の石柱が宮殿の屋根を支えていたという。しかし、いまも立っ
ているのは十
数本にすぎない。このアパダナでは、当時、ペルシア帝国に従属していた国ぐにの朝貢使たちがペルシアの王たちに拝謁し、たずさえてきた貢ぎも
のを献上し た。
◆朝貢行列図
アパダナには北側と東側に階段がある。そして、その両方に朝貢使たちの行列がレリーフ(朝貢行列図)として刻まれている。くわしくいうと、階
段の横の、高
さ3メートルほどの大岩に、上、中、下の三段に重ねて刻んである。したがって、朝貢使たちや彼らが引きつれている動物たちの背丈はいずれも1
メートル弱で
しかない。なお、行列は国別になっていて、行列の数は全部で23ある。そして、一つの行列は4〜5人の朝貢使と1〜2頭の動物から構成されお
り、行列の長 さは3メートルほどのようであった。
朝貢使たちの行列には、それぞれ特徴がある。たとえば彼らのヘアスタイルや帽子、服装、彼らが運んでいる貢ぎもの、また、彼らがともなってい
る動物など、
それぞれ行列ごとにちがっている。貢ぎものについていえば、多くの行列が壺やカップをもっているが、それらの形や大きさは行列ごとに形が変
わっているし、
織物やライオンの皮をたずさえている行列もある。また、砂金を入れた袋を天秤棒でかついでいるものもある。レリーフにはこれらの特徴が克明に
刻まれている ので、多くの場合、行列の一部を見ただけでも、それがどこの国の行列であるかを言い当てることができる。
◆フタコブラクダは3頭もいた!
ペルセポリスへ行くまえに、何冊かのガイドブックや紀行文を読んだ。しかし、朝貢行列図についての具体的な説明はほとんど見あたらなかった。
たとえば朝貢
行列図はどのくらいの大きさのものであるか、といったことも書かれていなかったし、バクトリアの行列についても「フタコブラクダを引く行列が
ある。それが
バクトリアの行列である」といった程度のことしか書いてなかった。まして、バクトリアの行列がアパダナの階段のどこに刻まれているか、また、
他にもフタコ ブラクダを引いている行列があるのかないのか、といった点に触れたものも見つからなかった。
そのようなことで、バクトリアの行列以外にフタコブラクダを引く行列はないのだろう、とのんきに考えてペルセポリスにやってきた。しかし、レ
リーフのまえ に立ったわたしは途方に暮れてしまった。フタコブラクダが見つからなか
ったからではない。3頭もいたからである。つまり、フタコブラクダを引く行列は3つもあったのである。これでは、どれがバクトリアのフタコブ
ラクダである
かわからない。はるばるペルセポリスまでやってきたというのに、どれがバクトリアのフタコブラクダであるか、とうとうわからずじまいになって
しまった。
◆フタコブラクダを引くのはバクトリアとアーリア、パルティアの行列
イランを発つまえ、イラン人の著者が書いた英語のガイドブックを買った。帰国後に読んでみると、23カ国の朝貢使たちについて簡単ながらひと
とおりの説明
がのっている。まず行列を一つずつとりあげ、それが階段のどこに彫られているか図入りで示してある(朝貢使の行列配置図 注1)。そして、朝
貢使たちのヘ
アスタイルや帽子、服装、さらにどのような貢ぎものをたずさえているか、引いている動物は何か、といったことなどが書かれている。
このガイドブックによれば、フタコブラクダを引いている行列は3つあり、バクトリア(朝貢使の行列配置図、T。写真3)とアーリア(J)、そ
れにパルティ
ア(G)の行列だというのである。バクトリアはすでに述べたようにアフガニスタンの北部であり、アーリアはアフガニスタンの西部、そしてパル
ティアはそれ に隣接するイランの北東部である(アケメネス朝ペルシアの版図)。
注1:イランのガイドブックでは、行列の配置図にはいくつかのミスプリントがある。ここに示した略図では、それらは訂正されてい
る。
◆フタコブラクダは、じつは4頭いた!
さきほど述べたように、イランのガイドブックによれば、フタコブラクダを引く行列は3つである。わたしも、そのようにおもっていた。ところ
が、その後、フ
タコブラクダを引く行列は4つあり、フタコブラクダの数も4頭であることがわかった。イランのガイドブックでさえ間違えている間違いを見つけ
たのだから、 「大発見」といっていいだろう。これはイラン旅行のときにお世話になった添乗員のTさんのおかげである。
旅行から帰って7カ月後、Tさんから4枚の写真が送られてきた。それらには行列が一つずつ写っていて、どの行列もフタコブラクダを1頭ずつ引
いている。何
度も見なおしたが、4頭ともまちがいなくフタコブラクダである。たしかに、背中にこぶが2つずつある。さらに、Tさんが同じ行列を二度写した
かもしれない と疑ってみたが、そうでないことはすぐにわかった。4つともみな違う行列である。
さっそく、4つの行列の「鑑定」にとりかかった。イランのガイドブックや写真集を参考にしながら、朝貢者たちの帽子や服装、そして貢ぎものな
どを見くらべ
る。その結果、予期していたとおり、3枚の写真はバクトリアとアーリア、それにパルティアの行列であった。問題は残りの1枚である。
◆4頭目はアラコシアのラクダであった
ほんとうにフタコブラクダが4頭いるとすれば、イランのガイドブックはフタコブラクダを1頭、ほかの動物と見間違えたことになる。しかし、フ
タコブラクダ
をウシやウマに見間違えることはないであろう。フタコブラクダをヒトコブラクダに見間違えたにちがいない。この考えが正しければ、4頭目のフ
タコブラクダ を引いているのは、ヒトコブラクダを引いていることになっているアラビアの行列かアラコシアの行列のどちらかである。
Tさんの4枚目の写真はアラビアの行列か、それともアラコシアの行列か。答は簡単である。なぜなら、その写真に写っている行列は上段の行列で
あって、写真
の下のほうには中段の行列の上の部分が写っている。ところで、行列の配置図から明らかなように、アラビアの行列(D)は階段の登り口にあり、
そこにはレ
リーフは一段しかない。それに反して、アラコシアの行列(I)は上段にあって、その下には中段と下段のレリーフがある。したがって、Tさんの
写真はアラコ
シアの行列にちがいない。すくなくとも、アラビアの行列ではありえない。それに、アラビア半島の南部はヒトコブラクダが最初に家畜化された場
所だと考えら れている。
ところで、4頭目のフタコブラクダがアラコシアのラクダであることを示す証拠がもう一つある。さきほど4枚目の写真の下部には中段の朝貢者た
ち(P)が
写っていると書いた。彼らは帽子をかぶっているらしいが、それは奇妙な帽子で、まるで頭に太いロープを4回巻いているように見える。写真集を
めくっていく
と、すぐにこの帽子をかぶっている朝貢者の行列を見つけることができた。しかも、彼らは2頭の雄ヒツジ(写真4)を引いている。これは重要な
手がかりであ
る。なぜなら、23の行列のなかで、このほかに2頭の雄ヒツジを引く行列はないからである。そしてイランのガイドブックによると、2頭の雄ヒ
ツジを引く行
列の上の行列(I)は、ほかでもないアラコシアの行列だということになっている。こうして、4頭目のフタコブラクダは、十中八九アラコシアの
ラクダである ことがわかった。
さらに直接的な証拠は、Sさんによってもたらされた。ちょうどそのころSさんがイランへ出発しようとしていたので、「2頭の雄ヒツジを引いて
いる行列と、
その上の行列をいっしょに写真にとってきてください」と頼んだ。彼からもらった写真を見ると、中段の行列はたしかに2頭の雄ヒツジを引いてお
り、上段の行 列(I)が引いているのはまちがいなくフタコブラクダであった(注2)。
こうして、4頭目のフタコブラクダはアラコシアのラクダであることがはっきりした。とはいっても、やはり自分の目で確かめてみたい! アフガ
ニスタンやイ ラクが平和になってペルセポリスを訪ねることのできる日が、一日も早くやってくることを期待している。
注2:イランのガイドブックによれば、フタコブラクダを引いているのはバクトリアとアーリア、それにパルティアの行列である。そ
して、今回、アラコシアの
行列もフタコブラクダを引いていることがわかった。しかし、どのレリーフがどの国の行列であるかということについては、次のよう
なコメントが必要であろ
う。すなわち、紀行文やガイドブックによっては、パルティアの行列をバクトリアの行列としていることもあるし、アーリアの行列を
パルティアの行列としてい
ることもある。■ということは、どの行列がどの国の行列かということについては、かならずしも研究者のあいだで意見が一致してい
ないことを示している。そ
して、その理由はおおよそ次のようなことらしい。すなわち、ある研究者は朝貢使たちの服装に注目して、その行列をA国の行列だと
する。他方、別の研究者は
彼らが引いている動物のほうに重点をおいて、それはB国の行列だという、といったことのようである。たしかに、ありそうなこと
だ。■
したがって、ここでは行列の出発地を詮索することは避けることにする。しかし、それにしてもフタコブラクダを引いてペルセポリス
へやってきた4カ国の行列
は、現在のアフガニスタンとその周辺の国ぐにの行列である、ということに変わりはなさそうだ。なお、多くの場合、バクトリアの行
列とされているのはT(写 真3)である。
◆フタコブラクダは、当時、アフガニスタンとその周辺に生息していた
朝貢行列図はバクトリアとアーリア、そしてパルティアとアラコシアの行列がフタコブラクダを引いてペルセポリスへやってきた、ということを示
している。と
いうことは、これら4カ国に生息していたのはフタコブラクダであったことを示している。すくなくとも、大部分はフタコブラクダであったにちが
いない。アリ ストテレスが書いていることとも一致する。
他方、ヒトコブラクダを引いてやってきたのはアラビアの行列(D)であった。アラビアはアラビア半島の北部である(アケメネス朝ペルシアの版
図)。当時、 ここにはおもにヒトコブラクダが住んでいたのであろう。
いうまでもないことであるが、ある動物がかつてどのような地域に分布していたかを知るためには、その動物の骨を発掘し、その分布などを明らか
にしなければ ならない。それが科学的な方法である。そして、これまでそのようにして多くの動物の分布が明らかにされてきた。
しかし、ラクダの骨が発掘されることは稀であり、そのうえ、それがフタコブラクダのものか、それともヒトコブラクダのものか判定がきわめて困
難だそうだ。
そのためラクダの場合、伝説、絵画、彫刻などが重要な手がかりとなっているらしい。ペルセポリスのレリーフも、貴重な手がかりの一つであろ
う。
◆いまではアフガニスタンにはフタコブラクダはいない
現在、フタコブラクダやヒトコブラクダはどのように分布しているであろうか。まずラクダ全体についていうと、ユーラシア大陸の東のモンゴルか
ら中国、そし
て中央アジア、さらに西側のイラン、イラク、中近東からアラビア半島、紅海をこえてアフリカ大陸北半分の大西洋岸まで、長いベルト状の地域に
生息してい る。このベルト状の地域は距離にして16,000キロメートル、地球一周の5分の2に相当する(注3)。
この広大な生息域のなかでフタコブラクダが住んでいるのは、FAO(国連農業食糧機関)などの資料によると、モンゴルと中国、そして中央アジ
アの北部(お
もにカザフスタン)といったごく限られた範囲でしかない。つまり、アフガニスタンとその周辺にはフタコブラクダはいないのである。残りの地域
は、ヒトコブ ラクダがほぼ独占しているようだ。
つぎにラクダの総数であるが、約1,900万頭だということである。そして、フタコブラクダは極端な少数派であって、全体の約7パーセント
(約130万
頭)にすぎない。圧倒的多数を占めているのは、ヒトコブラクダのほうである。話はすこし横道にそれるが、ラクダがもっとも密集している地域
は、アフリカ大
陸中央部東海岸のソマリアとそれに隣接する4つの国ぐに(スーダン、エチオピア、ケニア、チャド)である。これら5カ国に生息するヒトコブラ
クダは、1, 000万頭に達するといわれている。
注3:
その後、人の手によってラクダの生息域はオーストラリア大陸や北アメリカ大陸などにも拡大しているらしい。また、南アメリカ大陸
にはラクダの仲間である リャマやアルパカなどが生息している。
◆フタコブラクダは東へ後退した?
ペルセポリスの朝貢行列図やアリストテレスの記述からわかったことは、かつてフタコブラクダがバクトリアとその周辺に生息していた、というこ
とである。し
かし、いまそこにフタコブラクダは生息しておらず、上記のように、モンゴルと中国、中央アジアの一部にしか生息していない。ということは、フ
タコブラクダ
は生息場所を東へ移したことになる。それに、以前からモンゴルや中国にも生息していたと考えられるから、この東への後退は生息域の縮小という
ことになる。 同時に、数も減少したのかもしれない。そして、かわりにヒトコブラクダが進出してきた(注4)。
さらに古い時代(たとえば紀元前3,000年のころ)には、フタコブラクダはイラン全域に生息していたといわれている。わたしもそのことを裏
づけるような
ものを見た。それはテヘランの「ガラスと陶磁器」博物館で見たフタコブラクダの土人形(写真5)であるが、それには紀元前2,000年ごろの
ものだと書い
てあった。ただし、発掘場所は書いてなかった。ガイドさんに「博物館の人に尋ねてください」と頼んだが、他のことは何でもこころよく聞いてく
れた彼が、な ぜかこの頼みだけは聞いてくれなかった。
バクトリアなどの朝貢使たちがフタコブラクダを引いてペルセポリスへやってきていたころ、東はモンゴルや中国から、西はイランやそのさらに西
の国ぐにま
で、フタコブラクダはひろく生息していた。しかし、いまではイランはもとより、アフガニスタンにも生息していない。どうしてフタコブラクダは
東へ後退し、
ヒトコブラクダに取ってかわられたのだろうか。それは紀元前1,000年ごろ、アラビア半島南端からもたらされたヒトコブラクダが、乾燥や暑
さにも強く、
歩くのも走るのも速いことを知った人間が、ヒトコブラクダや、フタコブラクダとの雑種を選択的に利用するようになったことに原因があると考え
られている。
それに加えて、7〜8世紀以降、アラブの勢力がイランから中央アジアへ急速に浸透してくるにつれて、これらの地域でもフタコブラクダがヒトコ
ブラクダに 取って代わられた。
わたしがペルセポリスのレリーフをとおして垣間見たのは、フタコブラクダからヒトコブラクダへの交代がおこるまえの世界であったようだ。
注4:
この話題に直接は関係がないが、ラクダは北アメリカ大陸起源の動物である。ラクダの先祖は、250万年ほどまえベーリング海峡の
陸橋をわたってアジアへ移
動してきた。そのあと、ユーラシア大陸を西へ南へとひろがっていき、さらにアフリカ大陸へも移動していった。なお、北アメリカ大
陸のラクダは絶滅した。
この文章は九州・シルクロード協会の許諾のもと、会
報「シルクロード」 vol. 11 に掲載された「ペルセポリスのフタコブラクダ」 を改訂・再編集したものです(2003.3.26
公 開 2003.4.18改訂) 。
九州・シルクロード協会のHPはこちら。