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2008/10/19 |
■1. ハルトマンの絵 (1860-73年)
ヴィクトル・アレクサンドルビチ・ハルトマンもしくはガルトマン(1834-73)
は、ムソルグスキーと同じ時代を生きたロシアの建築家・デザイナー・画家。ヨーロッパの各地を留学した経験があり(1864-68)、年
齢はムソルグス キーよりも5歳年上で
した。スターソフの元で出会った芸術家仲間のひとりで、もっとも親しくつきあっていた友人でしたが、40歳の
若さで急逝。翌年(1874年)、遺作展が開かれ、これが「展覧会の絵」を作曲するきっかけとなりました。
ハルトマンの描いた絵はいずれも比較的小さい絵で、しかも水彩画やスケッチ風のものやデザイン画が多かったようです。しかし、精緻な絵
が多く、ス
トーリーを感じさせるものがあります。また、建築のデザイン画だけでなく、さまざまな土地で描いた絵も多く、「展覧会の絵」のモチーフに
なった「リモー
ジュの市場」や「古城」、「カタコンブ」などは観光地で売られている絵はがきのような印象があります。一方、「ビドロ」はどの絵がモチー
フであったか厳密
にはわかりませんが、ロシアの弾圧を受けているポーランドへのシンパシーを表現しているのは間違いなさそうで、これは絵の有無とは別にハ
ルトマン、ムソル グスキー両者の共通の思いを絵になぞらえて音楽にしたのではないかと思います。
古
城 |
卵 の殻をつけ た雛の踊り | 貧 しいユダヤ 人 | バー
バ・ヤー ガの小屋 |
キ
エフの大門 |
■2.ムソルグスキーの音楽 (1874年)
ム
ソルグスキー(1839-1881)は親友ハルトマンの遺作展の印象を元にして、「展覧会の
絵」を作曲しました。この作品は、ハルトマンの絵を音楽で表した標題音楽として知られていますが、実際には単純に絵を音で表現しようとす
るだけではなく、
二人に共通であった「友情」、「芸術への思い」、「ロシア固有の歴史・文化についての誇り」、「虐げられた人々へのシンパシー」、そして
「友を失った悲し み」な どが丁寧に盛り込まれました。こうしてハルトマンの絵のイメージは何倍にも膨れあがっていきました。
曲の構成はプロムナードと呼ぶ間奏曲6曲と絵をモチーフにした10曲の計16曲からなるピアノ組曲です。プロム
ナードは展覧会の中を歩き回るムソルグスキー自身の姿だと言われています。そして、5つのプロムナードのあと、そのヴァリエーションであ
る「死者の言葉
で死者とともに」が最後のプロムナードの役割を果たし、終盤のバーバ・ヤーガとキエフの大門へとつながっていきます。つまりは全体をとお
して、ムソルグス キーがプロム ナードで語り、ハルトマンが絵で語るという構成です。
初版 |
1966年 |
ムラビンスキー指揮のラヴェル編をベースに
して作成され た。実際の演奏
は秋山+東響。最後のシーンは7m四方の紙に絵を描いて、それを10mも後ろからトラックバックして撮影されており、引
き続き、演奏の様子が実写で入る。
この実写は「ホフマン物語」に倣ったものらしい。制作費は3千万円。製作日数2ヶ月。また都市センター・ホールで上映し
た時は、秋山+東響の生演奏で行っ たと言うから凄い。 |
2版 |
1969年 |
最初の部分を修正し、最後の実写部をアニメ
と差し替え。 |
3版 |
1969年 |
ベニス映画祭に向けて英語化。出品の1ヶ月
ほど前になっ て、ラヴェル編
は著作権が生きており、しかも高額であったことから、急遽、冨田勲に編曲を依頼。わずかに、1週間で仕上げてもらう。さ
すが冨田である。しかし、残念なが ら賞は取れなかった。 |
4版 |
1972年 |
第3版の日本語版。 |
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