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「展覧会の絵」年代記
The chronicle of "Pictures at an exhibition"


■1.原典版(自筆譜)

ムソルグスキーは音楽 史などでは「5人組」と呼ばれる音楽家集団のひとりとして良く知られているが、ムソルグスキーひとりに限って見ると、後 年になるほ ど、スターソフという人物の影響が大きくなる。スターソフはロシアの芸術史研究家であり、 評論家であったが、指導者的な面もあり、多くの 若い芸術家の アドバイザー的な役割を果たした。そして、彼のサロンには、音楽、絵画、建築、彫刻家などが集まり、ロシア固有の芸術を探求する空気が醸成されて いた。

Hartmann
Victor A. Hartmann (1834-1873)
このサロンで、ムソルグスキーはハルトマン (ガルトマン)というひとりの建築家であり画家でもあ る男と出会 う。1870年頃のことである。 ハルトマンは ヨーロッパ遊学から帰ってきたばかりの頃であり、さまざまな国の風物や政治情勢をムソルグスキーに語ったはずである。自分の書いた絵もきっと 見せながら話 をしたに違いない。そして、二人は最良の友人同士となった。ムソルグスキーは独身で、友人作りが下手な男であった。また、音楽は独学であった ため、作曲の 技術が稚拙なところがあり、当時の楽壇にはきちんと評価されなかった。仲間であるはずの「5人組」さえも、彼の音楽の真価を認めていたとは言 い難い。そう した孤立しがちなムソルグスキーにとっては、音楽と無関係なハルトマンは話がしやすい友人であったと思える。

しかし、そのハルトマンが1873年8月4日(ロシア暦では 7月23日)、急死した。ムソルグスキーの落胆ぶりは大きかったと いう。残された手紙などによると、ハルトマン の体の異常に気づきながら友人として成すべきことをしていなかったのではないかと自責の念にかられている様子がわかる。一方、スターソフはハ ルトマンの遺 作展を開くことにした。ハルトマンの作品を整理することと、ハルトマン未亡人のための資金援助が目的であったと思われる。ペテルブルクの建築 家協会で 400点以上の遺作を集め、大々的に行われたという。1874年2月のことであった。

そして、その展覧会から半年経って、ムソルグスキーは「展覧会の絵」を作曲する。ムソルグスキーにしては珍しく、わずか2-3週間足らずで一 挙に作曲され た。1874年7月4日のことである。この自筆譜は、現在はレニングラード国立公共M.J.サルティコフ・シェッシュドリン図書館に保存され ている(手稿 本部門、M.P.ムソルグスキー基礎資料502番、文書番号129)。いわゆる自筆譜とかファクシミリ版と呼ば れているものである。

なお、原典版とか原曲と言う場合、普通はこの版を指す。しかし、厳密にはパヴェル・ラム校訂版が原典版としてよく知られているので、校訂され ていないもの を自筆譜もしくはファクシミリ版と表現するようである。


■2.死後のピアノ譜出版 (リムスキー=コルサコフ版)

Mussorgsky by Repin
Modest P. Mussorgsky (1839-1881)
しかし、この「展覧会の絵」は、演奏も出版も無いままであった。そして、1881年3月28日、ム ソルグス キーがアルコール中毒と生活苦から 衰弱してこの 世を去る。今日、よく知られる彼の肖像画は、死の3週間ほど前、スターソフの元でやはり懇意であったレーピンの筆によるものである (レーピン は「ボルガの 舟曳き」で有名なロシア・リアリズムの画家)。

しかし、幸いにもリムスキー=コルサコ フが ムソルグスキーの遺稿を整理してくれ た。そして、展覧会の絵のピアノ譜が、1886年に出版され、 ついに日の目 を浴びる ことができた。この版は、リムスキー=コルサコフの改訂が目立つため、現在は「リムスキー=コルサコフ版」として原曲とは違う扱いとなってい る。これはム ソルグス キーの原曲があまりに荒削りであり、また非常識な部分があった(当時の感覚で)ためと言われており、リムスキー=コルサコフがムソルグスキー の音楽を理解 していなかったからだとも言われている。しかし、ムソルグスキーの楽曲を世に出した意味は大きく、5人組の中で、リムスキー=コルサコフが最 もその音楽の すばらしさを認識していた証左であると思う。

なお、ムソルグスキーの残した音楽の多くは、未完成のものが多かったが、後にさまざまな音楽家がこれを補訂もしくは改訂や編曲をして世に出し た。とりわ け、1922年にフランスのラヴェルが「展覧会の絵」を管弦楽曲へと編曲をしたのは大きい。これによって、一挙にムソルグスキーの「展覧会の 絵」が有名に なったからである。


■3.ラヴェルによる管弦楽への編曲(ラヴェル版)

o-ravel
Maurice Ravel (1875-1937)
ボストン響の指揮 者クーセヴィッキーが、 管弦楽への編曲を考えつき、ラヴェル依頼した。クーセヴィッキー自身が ロシア出身であること、当時のボ ストン響にはフランス出身のメンバーが多くいたこと、フランスの印象派の音楽家たち(サン= サーンスやラ ヴェル、ドビュッシーなど)にムソルグスキーの和音を多用する様式が高く評価されつつあったこと、しかも、ムソルグスキーのピアノ曲は管弦楽曲を作るための習作の ような作りで あったこと、などから、ラヴェルにとっても魅力的な依頼であったと思われる。

ラヴェルは早速、リムスキー=コルサコフ版を元に編曲を開始し、「オーケストラ の魔術師」と いう二つ名に恥じない実に見事な編曲をした。とりわけ、ファンファーレのようにトランペットで始まるプロムナードに象徴されるように華やかな 色彩を与える ことに成功した。泥臭い「展覧会の絵」に新しい生命を与えることに成功したと言ってもよいだろう。初演は、1922年10 月19日、パリ・オペラ座で。クーセヴィッキー指揮・ボストン響演奏は1924年11月7日。録音は1930年。

ラヴェル編「展覧会の絵」は、大変な人気曲となったが、 クーセヴィッ キーは、5年間の演奏独占権を確保したため、しばらく他のオケではラヴェル編を演奏できなかった。また、解禁後もラヴェルへの著作権料が高額 であった。こうしたことから、新たな管弦楽曲への編曲が相次ぎ、カイエ版ストコフスキー版、 ゲール版、ゴルチャ コフ版な ど、さまざまな編曲 が生まれることにもつながった。


■4.原典版の復活(リヒテルのソフィアライブ)

RIchter
Richter's Sofia Live (1958)
一方、原曲(ピアノ曲)の方 は、ラヴェル編の人気に引っぱられるようにして、少しずつ演奏されるようになってきた。が、難曲であったためこれ を弾けるのは ビルトゥオーゾの証明のような扱いになりかけていたし、単なるラヴェル版の器楽曲版のような扱いでもあった。そうした中、ロシアのピアニス ト、リヒテルの レコードが新しい扉を開く。1958年のことである。

当時はアメリカとソ連(現在のロシア)の対立が激化し、東西冷戦の真っ最中である。ロシアのピアニストたちは高い評価を得ていたが、そのレ コードや演奏が 西側諸国で聞ける機会はなかなかなく、リヒテルも幻のピアニストと言 われていた。そのリヒテルのソフィア(ブルガリアの首 都)でのコンサート 録音がレ コー ドとして発売された。曲目の中に「展覧会の絵」があった。西側諸国ではまだ殆ど聴くことができなかった原典版に忠実な演奏であった。リヒテル のすさまじい ばかりの演奏技術も衝撃的で、これが原典版がメジャーになるきっかけと言って良い。

現在、入手可能なCDやレコードを整理すると、「展覧会の絵」のピアノ曲の録音は、この1958年を境にして、リムスキー=コルサコフ版から 原典版 へと切り替わるのがよくわかる。そして、この原典版は、ラヴェル版とは違いロシア臭が強く、強烈な個性がある。無論、演奏するには難曲である ことに替わり はないが、ラヴェル版の器楽曲版になりがちであったピアノ曲が、ラヴェル版にはない魅力を持ったものに成った。そして、ラヴェル版に負けず劣 らぬ人気の曲 になった。


■5.ELPのロック版とそれ以降の発展

ELP's Pictures at an
                exhibition
ELP's   Live (1971)
1971年、イギリスのプログレッシプ・ロックの雄、エ マーソン・レイク&パーマー (Emerson, Lake & Palmer; ELP)が「展覧会の絵」のライブレ コードを出す。 センセーショ ナルであった。

ロックという全く新しい音楽を作ろうとしているグループがクラシックの曲をシンセサイザーやエレキギターでアレンジしてしまった。しかも、 ロックとしても 面白い音楽になっていた。それまでも「展覧会の絵」はいろんな編曲が出されていたが、クラシックの中だけでの話であり、それもありきたりのア イデアの範囲 から出なかった。

このELP以降、一挙に様々なアレンジが出てくる。冨 田勲のシンセサイザー版(1974 年)、山下和仁のソロ・ギター版(1981年)などは 世界的にも大 きな影響を与えた。このほか、オルガン 版ブラス版マンドリン版な どの人気も高 く、現在もさまざまな録音が次々と出ている。

NHK TV
NHK 追跡「展覧会の絵」(1991)
また、1991年月1日、NHKスペシャル「革 命に消えた絵画・追跡・ムソルグスキー”展覧会の絵”」が放送される。團伊 玖磨さ んの進行で、 ハルトマンの 絵のうち、「展覧会の絵」のモチーフとなった10枚の絵がすべて明らかにされる。「展覧会の絵」の謎解きの核心にせまった番組であった。学問 的な手続きが 不十分であるという批判もあるが、それまで、ハルトマンの絵の研究は殆どされていなかったので先駆的な仕事であったと言って良い。また、ビド ロという言葉 の意味や音楽的な印象などから、絵を推理していく「面白さ」は画期的であった。

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